津上俊哉 現代中国研究家・コンサルタント

時論/エッセー

『<民主>と<愛国>-戦後日本のナショナリズムと公共性』を読んで
2003/08/11
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 戦後の歴史を考えるとき、いつも不思議に思うことがあった。戦中「鬼畜米英」と憎悪した米軍を敗戦後手のひら返すように受け入れた日本人の頭の中はどうなっていたのか、昭和天皇の戦争責任を当時の日本人はどう考えていたのか、などなどだ。
 学校は戦後の歴史を教えない。これまで戦後史を扱った本もGHQ内部の権力闘争や戦後立て続いた怪事件(下山事件や帝銀事件など)を扱うものはあっても、上記のような素朴な疑問に正面から答えてくれるものがなかった。
 『<民主>と<愛国>』はこのような疑問を持つ戦後生まれに目から鱗が落ちるような多くの発見をさせてくれる本だ。注やあとがきを含めると960ページという単行本とは思えない大著である。読み通すのはホネだったが、買い求めてから一、二週間、傍線引き々、食い入るように読み続けた。
 「本書の主題は『戦後』におけるナショナリズムや『公』に関する言説を検証し、その変遷過程を明らかにすることである。」(序章、冒頭頁)
 筆者はこのために膨大な文献を駆使して、戦争と敗戦を体験した日本人が共有した「心情」を再現しようとしている。時空を遡って読者に当時の心情を追体験させようと試みていると言ってもよい。これが本書の最大の魅力だ。
 筆者がそうしたのは、同時代の共通体験が共通の「心情」を生み、それが「言説」の変動の原動力となると考えるからだ。共通体験を重視する筆者は1955年までの敗戦後10年間を「第一の戦後」、それ以降を「第二の戦後」と呼んで「戦後」を2つに分かつ。第一の戦後は貧困と不安定な社会秩序の時代であり、他方それ故に「現実は変えられる」という熱気を帯びた時代だった。それに対して、第二の戦後は豊かな時代の始まりであり、秩序が安定に向かうと同時に改革の熱気も冷めていった時代だった。
 戦前、戦中、そして2つの戦後を、どういう年齢、いかなる境遇で迎えたか? 共通体験が時代の心情を生んでいく様が描き出される。特に今日「戦後知識人」と総称される人々がいかなる心情から何を発言したのか、が臨場感を以て再現される。このために厖大な関連文献を読み込み、追体験と整理分析を試みてきた筆者の努力は特筆に値する。

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 読み進むうちに、本書執筆の大きな原動力は、「戦後知識人」が担った「戦後民主主義」に対する今日の批判に異議を申し立てることだと分かってくる。批判される戦後知識人とは丸山真男や大塚久雄らであり、批判される「戦後民主主義」とは「『国家』や『愛国心』を否定して『個人』から出発する」世界市民(コスモポリタン)思想であり、西洋かぶれの『左翼進歩主義』だ・・・という風に今日理解されている思想のことだ。
 そんなことはないと筆者は主張する。知識人にとっても敗戦は屈辱、痛恨事だった。あまりの惨禍に言葉を失う衝撃を受け、国が滅んでしまうと危機感を募らせた。同時に、「我々日本人はほんとうに底力を出し切らぬまま戦争に負けた」という悔恨の「心情」が知識人にとどまらず、当時の多くの日本人に共有されていたことを筆者は強調する。
 今日、戦時中の日本社会、国民については、「多くの国民は困難の中、よく働き、よく戦った。それは戦争の勝利を願っての行動であった」(扶桑社「新しい歴史教科書」)といった認識が生まれている。そうだったのだろうか。筆者が当時の文献を引用しながら示す状況はずいぶん異なる。それは「総力戦」、「滅私奉公」を建前としながら、実は私利私欲(「公」に名を借りた私的利益の追求)、セクショナリズム、責任回避、いじめ(「上位から下位への抑圧委譲」)など、日本の醜い部分が横行する情けない姿だ。私もそういう記憶の方に聞き覚えがある。父母がときおり思い出したように口にする「戦時中」がそうだった。
 当時、そういう光景を眼にしながら長いものに巻かれた己の卑屈さ、意気地のなさも人の心に悔恨の深い瘢痕を残した。戦後知識人達は、そういう想いのうえに、敗戦の根本原因を近代的な個人、自我確立の欠如に求めた。「戦前の教育は個々人の責任意識に根ざした愛国心を育てたのではなく、『忠実だが卑屈な従僕』を大量生産したにすぎなかった」(丸山)。「近代総力戦に於いて優位を獲得するには、国民の一人一人をして戦争に責任を感ぜしめざる可からず。国民をして其の当面する戦争を以て軍部及び政府の戦争なりと思はしめる如きことあらば、近代戦は先ず此の点のみにて敗北する外なし」(芦田均)。
 (注:芦田のこの文章を「国民をしてその当面する政治課題を以て、自民党と官僚の政治なりと思はしめる如きことあらば」と読み替えてみると、60年経っても何も変わっていないのではないかと慄然とする)。
 「第一の戦後」の時期、「<個の確立>は<公>への参加意識と一体」だった。筆者は「『戦後民主主義』は戦前の「総力戦」(国民が「底力」を出す戦争)の思想の延長線上に新しいモラルとナショナリズムの模索として」始まり、敗戦直後には<民主(デモクラシー)>と<愛国(ナショナリズム)>が両立していたと説く。それが本書の題名の由来である。
 戦後知識人がそういう愛国心を感じていたと聞くと意外だが、我々が当時その立場にいたら同じように感じたであろう。本書が描く「第一の戦後」は、同じ日本人として違和感なく追体験できる。必ずしも誰もが冒頭疑ったように「米軍を敗戦後手のひら返すように受け入れた」訳ではなかったのだ。
 筆者は続けて、憲法擁護と非武装中立は戦後日本のナショナリズムの表現形態だった という。憲法制定当初、素朴なナショナリズムは右翼、左翼を問わず「押しつけ憲法」に対する反感を生んだが、日本に非武装を強要した第9条を戦後日本の新しいアイデンティティにしよう、それが「戦死者の死を無意味に終わらせない」所以でもあるという気運も生まれた。すると、今度は朝鮮戦争勃発を期に、「左向け右!」の如く再軍備要求が来た。
 これに対する「反対運動は純然たる平和志向だけから発生してきたのではなかった・・・根底にあったのはアメリカによって戦後日本のナショナル・アイデンティティがねじ曲げられることへの抵抗感と、アメリカに従属して復活を図ろうとする旧勢力への反発だった。」本書中のある章の題名は「忠誠と反逆」だ。私流に敷衍すれば、帰属する国家への忠誠(ナショナリズム)と抑圧的な権力装置としての国家への反逆、になる。「ナショナリズムを否定した」わけではないことを筆者は強調する。
 そこには「戦中の記憶や後悔」も与っていた。「我々戦後派は、前に屈辱があるわけで、戦後逆コースが来たときに、今度こそ行為によって実証してやろう」と考えた(鶴見俊輔)。

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 私はナショナリズムや公について語ることが何となく憚られる時代に育ってきた。そういう価値体系を「戦後民主主義」と呼ぶのだと思ってきたが、そういう自分にとって、以上のような描写は驚くことばかりだ。私とほぼ同世代の筆者もあとがきの中で、「研究を始めてみると、『戦後』や『戦後民主主義』というものは、従来自分が漠然と抱いていたイメージとはおよそ異なるもの」だったと述べている。
 しかし、そうであればあるほど、「では、戦後知識人や戦後民主主義について今日通用する理解は、いったいどうやって生まれてきたのだ!?」という疑問が膨らむ。
 筆者は(戦争責任や歴史を巡る昨今の)「議論の内容への賛否以前に、それらの議論が前提としている『戦後』認識が間違っているケースが多い」と主張し、「『戦後』とは現代の人々が最も知らない時代の一つ」だという。誤った認識が拡がっていったことにも、ある時代(この場合は「第二の戦後」)をどういう年齢、いかなる境遇で迎えたか? 共通体験が時代の共通心情を生むという事情が深く関わっている。
 本書はその事情を明らかにするために、丸山ら戦後知識人より10歳ほど若く、60年代に彼らを批判した吉本隆明(戦中派)、吉本より更に10歳若い江藤淳、大江健三郎、小田実ら(戦後派)を取り上げ、彼らの世代史および個人史を詳細に検証している。丸山らが軍国主義一色に染まる以前の教育を受けて成人し、敗戦時には30歳前後に達していたのに対して、吉本は戦争の時代に皇国教育を受けて育ったため、敗戦で「価値観の崩壊」を経験した世代だ。江藤らは更に敗戦時10歳(「ギブミー・チョコレート」を経験した世代)だった。
 吉本らの世代は年長の戦後知識人世代を攻撃した。「最大の武器となったのは、戦争に批判的であったにもかかわらず沈黙していた年長者たちの戦争責任を追及し、彼らを卑怯であると攻撃することだった」。それは「年少の世代ほど、自分は戦争の被害者だという意識を持っていた」からだ。
 江藤らの世代は、「昨日まで『鬼畜米英』や天皇崇拝を説いていた教師が、突然にアメリカと民主主義を賛美する」事態に遭遇した。こうした現象は生徒たちの不信を買い、『戦後民主主義』の欺瞞という印象を植え付ける」ことになった。
 戦争体験は世代、階層によって相当異なるだけでなく、個々人の境遇、生い立ちによっても異なる。「兵役や空襲を経験しなかった吉本や江藤は、(戦死者への憧憬など)ロマンティックな戦争観を抱きながら、『戦後民主主義』を『欺瞞』として攻撃した」。極限状況を潜りぬけた戦争体験者は「強烈な被害者意識と不可分のかたちで、自分だけが生き残って平和な生活をしている」という「一種の加害意識」、「罪責感」に苛まれたが、「戦争を知らない世代はこうした心情を理解できなかった」。
 戦後知識人が戦後世代に受け入れられなかったことについては、「戦争体験を持たない世代に共有されうる言葉を創れなかった」戦後知識人も責めを負っている。筆者は当時の膨大な文献に分け入って、彼らが戦争体験を語る言葉を採集したが、一般的に言えば権威への服従や転向といった「負い目」を負う戦後知識人の世代は「自己の戦争体験については多くを語らなかった」。
 さらに、秩序が安定に向かい、豊かになった「第二の戦後」の時期、戦後思想が沈滞した。「第一の戦後」は混乱と貧困の中で「社会は変えられる」と思わせたが、結果は、改憲を阻止できる1/3の議席を野党が得る「1955年体制」の成立により「左右の政治勢力が理念をぶつけ合うことは棚上げにして」経済成長に邁進する時代がやってきた。
 60年安保闘争は久々に国民の政治意識を高揚させた。「元A級戦犯であり、強行採決といった既成事実を積み上げる岸(信介総理)の政治手法が戦争に突入した時代の記憶を呼び起こす」ものだったからだ。しかし、岸は退陣させたが安保条約は自然成立、闘争は敗北に終わり、運動は急速に退潮に向かった。
 これ以降、生活保守主義、「政治的無関心と結びついた私生活優先」が力を得た。「護憲、平和、民主主義」は思想的ダイナミズムを失い、「保守勢力の攻勢から戦後改革の成果を『守る』防御的なスローガン」と化していった。
 同時に、戦争の記憶の風化が進む。多くの人々は戦争体験の傷を直視することよりも、高度成長の中でそれを隠蔽することを選び、年長者の中には戦争を感傷的に美化する者が増えた。生々しい戦争を体験しなかったが、敗戦後、一家没落でアイデンティティに傷を負った江藤淳は、米国留学中に「愛国心を罪悪感なく謳歌する」米国の若者を見て「明治国家」を想起し、そこにアイデンティティ回復のよすがを求めた(「自分探し」としての保守ナショナリズム)。丸山ら戦後知識人も「明治」の「武士道精神」を称賛したが、それは戦前、戦中を批判するためだったのに対して、江藤は戦後の日本を批判するために明治を見出した。
 こうして「ナショナリズム」の持つ意味合いが第一の戦後とは大きく変化していく中、大江健三郎氏のような「進歩派」は「ナショナリズムという言葉は使用したくない」と言い始める。
 その後に全共闘世代が台頭する。ベビーブームと高度成長の帰結として、大学が「マスプロ教育」の場になり、学生の位置づけも、それまでのエリートから「マスの一員」に過ぎなくなった時代だった。ベビーブーマーのエネルギーは、劣悪な「スシ詰め」教育環境の中で旧態依然とした大学当局の権威への反抗に向けられた。
 大学には「平和と民主主義」を奉ずる戦後知識人の教官たちがいた。「平和と民主主義は戦前世代にとってはようやくにしてありついた恩恵だったのだろうが、戦後世代にとっては懐疑すべき、さらには打破すべき空語と映った」(西部邁)。特に丸山らは「責任意識」を重視するエリートだったせいで、全共闘世代に激しく攻撃された。
 年長世代を糾弾する点では先行世代と共通する全共闘世代だったが、「高度成長期に育った若者達にとって日本は既に管理社会化した先進帝国主義国家」になっていた点が違いだった。「国家」や「民族」を「彼らを抑圧する所与の体制」と感じた全共闘世代は、(意味内容も変質しつつあった)ナショナリズムを批判し、戦争における日本の「加害」を強調した。
 このように「ナショナリズム」、「市民」、「民族」、「国民」、「国家」、「近代」といった言葉の使用法や意味が世代の交代とともに変遷する中、敗戦直後には両立していた<民主(デモクラシー)>と<愛国(ナショナリズム)>が再び分裂していった。

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 言葉の意味の変遷の過程で、「戦後知識人」を批判した後続世代が「戦後思想」の著作を読んでいない、読み込みが足りないことを筆者は何度も強調している。批判は佐伯啓思氏、加藤典洋氏など現役の思想家にも及ぶ。
 たとえば、戦後民主主義を「国家を否定するもの」として見る彼らの「戦後」観は「第二の戦後」期に作られたものだが、彼らがその「戦後」を批判するときに使う言葉は「公民」であったり「戦死者への追悼」であったりする。筆者は、実はそれが「第一の戦後」の言葉であることを彼らが知らないため、その「言葉を語ることが『戦後初めて』のように感じられる」のだろう、それは「幻想の戦後と一人相撲をとっている」のに等しいという。「同じ言葉を各人が異なる意味で使っている状態では、まともな対話や討論が成立するわけがない・・・」自分は徹底的に読み込み、時代の心情を掴み、当時の空気を吸ったぞという筆者の秘やかな自負が感じられる。
 言説、それを産み出した時代の心情、心情を表現する言葉の使用法、意味合いについて、筆者が丹念に検証を続けたのは、冷戦終結によって始まった「第三の戦後」期のいまを生きる我々もまた、「時代の心情を表現する新しい言葉を探し求め、探しあぐねている」と見るからだ。「本書のめざすところは、こうした『戦後思想』の姿をよみがえらせ、その継承すべき点を評価するとともに、その限界と拘束を越えることである・・・」読了してみると、筆者が序章で宣言したことの意味が伝わってくる。

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 以下、読後の感想を3点述べたい。

 第一に、「戦後日本はアイデンティティに『ねじれ』を生じている」(加藤典洋)ことは漠然と感じてきたが、今回本書を読んで、それは敗戦による一回性のねじれというより、疲労骨折にも似た挫折の連続だったという印象を持った。つまり、毀損したモラル、アイデンティティを新しく打ち立てようとしては、何度も挫折してきたのが戦後日本だったのではないかということだ。
 まず、冒頭記したもうひとつの疑問、昭和天皇の戦争責任についてだ。本書は当時、陛下の周囲を含め、多くの人が退位によって御責任を明らかにすべきと考えていたことを教えてくれる(ちなみに最近、昭和天皇がご自身の責任をどう考えておられかを示唆する「国民への謝罪詔勅草稿」を「文藝春秋」誌が報道した(本年7月号)。「静カニ之(戦渦)ヲ念フ時、憂心灼クガ如シ、朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ恥ズ」・・・いたたまれぬ痛恨の想いが伝わってくるお言葉だ。そこにも同じ日本人として違和感なく追体験できる歴史がある)。
 御退位が幻に終わった原因はGHQが認めなかったことだったが、この責任がうやむやにされたことが戦後モラルとアイデンティティを再建しようとした努力の第一の挫折ではなかったか。
 「祖国再建の精神的な礎は、国民の象徴たる天皇の御挙措進退の一に懸かって居る」(南原繁東大総長)、「若し、如斯(御退位)せざれば、皇室だけが遂に責任をおとりにならぬこととなり、何か割り切れぬ気持ちを残し、永久の禍根となるにあらざるや」(木戸幸一)、「陛下の御責任を不問に付しては世に道義は廃れる」(三好達治)といった当時の言葉は、いまの日本の政治や社会の現状に照らし、我々の心に突き刺さるものがある。
 次に、憲法押しつけと、それから数年も経たずにやってきた、いわゆる逆コース(再軍備等)だ。「押しつけ」へのナショナリスティックな不満を殺して、新しいアイデンティティとモラルの拠り所を新憲法に求めようとした試みも、憲法は改正しないのに再軍備するという新たな欺瞞を生んで終わった。さらにその後60年安保が来て、モラルやアイデンティティをめぐる国民の関心が再び高まったが、これも安保条約自然成立という形で挫折して終わった。
 それら全ては敗戦後の日本という国が厳しい国際社会と世界史の潮流に翻弄される過程であった。毎回試みられたことは、最近の「諸君」誌(8月号「癒しの戦後民主主義」)で本書を激しく攻撃した西尾幹二氏がいうとおり、「世界の政治現実を無視」し、「政治に空想を持ち込む」試みだったといえるかも知れない(振り返ってみて、「それぞれの時点で政府がとった決断は間違っていなかった」と見るのがいまの日本の大勢であるし、私もそう思う)。
 しかし、非現実的だったとしても、国民が拠って立てるモラルやアイデンティティを再建しようとする想いは理解も共感もできる。その試みが毎回挫折したことは、日本国民にそういう価値に対する冷笑的態度、ニヒリズムという深刻な後遺症を遺した気がしてならない。

 第二に、理想を求めては挫折を繰り返し、欺瞞を重ねる過程で、戦後思想が風化しただけではなく、思想そのものが空洞化したのではないかと思う。本書で紹介された「戦後思想」には多くの汲むべきものを感じ取れるが、それを批判した言説は時代を追って無価値に堕していく印象があるからだ。
 戦後民主主義を批判して「大衆の生活実感」を賛美した吉本隆明の言説を、筆者は「公の解体」と評した。しかし、議論としては面白くても、およそ「公」なるものを全否定するような立場が、まともに後世の参考になるような価値なり寿命を持つとは思えない。
 全共闘世代になるともっとひどい。若さのエネルギーの爆発は感じられるが、それが後世にどういう価値を遺しただろうか。筆者は「大学解体」と「自己否定」を標榜した全共闘学生に対して、小田実の言葉を借りて「あとからやってくる人たちに向かっては、こうした『帝国主義大学』に来るな、入る必要はないと言い、自分は『帝国主義企業』に入っていく――というようなことは倫理的にタイハイ(頽廃)していた」という痛烈な批判を発している。中には思想家もいたかもしれないから「十把一絡げ」に切って捨ててはいけないかもしれないが、時代としてみた全共闘は「騒擾」以外に何を遺したのだろうか、という想いを禁じ得ない。
 戦後思想を批判する側だけの問題ではない。戦後思想を継承した(はずの)勢力の側でも、思想の空洞化が起きたと思う。たとえば、天皇制、日の丸、君が代批判だ。
 戦後思想における天皇制批判は、天皇制という制度が「個」の確立を妨げ、責任意識を欠いた「無責任の体系」を生んで敗戦という痛恨事を招いたという認識に立って天皇制を批判したが、戦争の記憶の風化とともに、そうした考察や提言、つまり思想の要素が抜け落ち、天皇や国家に連なるイメージ全てを拒絶する条件反射だけが残った憾みはないだろうか。
 戦争における(日本の)加害事実を発掘する運動についても同様の事情を感じる。戦争の中で極限状況を潜り抜けた結果、「自分だけが生き残った」という罪責感を持ち、「加害」に敏感になるのは、魂の叫びとして共感できる。また、日本の加害事実を発掘する行為も日本のあり方に対する「公論」の提起としてなら耳を傾けなければならないと思う。
 しかし、「被害国への御注進」や「被害者の煽動」といった側面が露わになってくると、それは「公」とは関わりのない、その人の「私的な生業」ではないのかという疑念が膨らんでくる。私はいわゆる「自虐史観批判」の立場が加害の事実まで否定するのは困ったことだと思っているが(南京虐殺が30万人の虐殺だったか否かは別にして)、他方、自虐史観批判が世論の中で力を得てきた背景には、「見たくない、聞きたくないことを見せられる、聞かされること」に対する不快の表明というエゴの問題にとどまらず、運動を行っている人たちの動機や志操に直感的な疑念が沸くようになってきたからではないかという気持ちも持っている。

 第三に、本書が「ポスト団塊世代」の手によって、今という時代に生まれたことは偶然ではないと思う。敗戦から60年近い歳月、世代にして2世代を経て、ようやく「敗戦」という事実に先入観なく向き合い、冷静に検証できる世代が現れたと思いたい。「同世代」と称すると、私よりも五歳若い筆者は異論があるかもしれないが、読み進めながら、これは我ら「ポスト団塊世代」にして初めて、世に送り出しえた本だと感じた。
 また、本書は筆者のいう「第三の戦後」(冷戦の終結後)だからこそ生まれた。いま、日本は「失われた十年」を経て、戦後日本とは何だったのだろうか?日本は何かを大きく間違えてきたのではないか?を問い直している。本書がテーマとした「ナショナリズム」や「公」は問い直しの最大の争点になっているといってよい。「第二の戦後」以降、「左・進歩派」はこれらの概念・現象を否定的に捉え、アレルギーを示してきた。昨今は、まさにそういう「戦後民主主義」が今日の日本の蹉跌を生んだとする「右」からの批判が盛んだ。
 人の政治的立場を図式的に分類することには慎重であるべきだろうが、筆者の主張は俗に言えば前者の「左」に近い。後者の「戦後民主主義」批判の通俗さを痛烈に批判する一方、ナショナルなものにアレルギーを示した「左」の主張には同情的という印象を受ける。前述のとおり、本書で批判された「右」側の西尾幹二氏などは、筆者に「左」の匂いを嗅ぎ取ってか、最近本書を激しく攻撃する論考を発表した(前掲)。
 しかし、「左」かもしれない筆者が「ナショナリズム」や「公」に関心を持ったことに、私は注目したい50歳以上の「左」の人たちは、そんなことはしなかった。筆者は本書の末尾で「もちろん筆者は『ナショナリズム』と呼ばれる現象のマイナス面を承知しているから、『ナショナリズム』という言葉の復権を唱える意志はない」と断っている。そういう断りの仕方が、「やはり左の人かな」と思わせるが、筆者は「間合いの取り方」に慎重になりながらも、「ナショナリズム」や「公」に共感や連帯のよすがとなるものを探そうとしているように思える。「マイナス面がある」にしても、それは全否定すべきものではない、「第三の戦後」のいま、従来の政治的対立の止揚のうえに、『ナショナリズム』や『公共』を再定義することが必要ではないか?といった想いを行間に感ずるのだ。
 筆者は本書で多用した「心情」概念について、「既存の言語体系によっては表現困難な残余の部分」という定義を与えている。恐らくそこには、既存の「左」の言語体系によっては表現困難なものを感じている筆者自身がいる。それぞれの問題に対する立場は筆者と全て同じくする訳ではないが、既存の言説への飽きたらなさ、違和感の感じ方に共感を覚え、自分と同じ世代からこの労作が生まれたことを誇りに思う。

 筆者はナショナリズム概念の「旧弊」を避けるために、ナショナリズムとは「自己の喜びが他者の喜びでもあり、他者の苦痛が自己の苦痛であり、自己と他者を区分する既存の境界が意味を失うような現象」の一種ではないか、という仮説を提出している。一言で言えば、ナショナリズムは「連帯感」のよりどころになるものの「一つ」だということだろう。同時に、そういう連帯感は国家の内側にも(同じ県民の誇り)、外側にも(同じアジア人、地球の住人)拡がりうる同心円構造を持つから、権力に悪用されやすいナショナリズム(ネーションに対応する連帯感)を相対化することができる、といった慮りから出た着想かな、というのが私の憶測である。
 そういう同心円構造のイメージは悪くない。私は専門領域がら、アジアとの連帯に関心が強い(本書はアジアとの関係についても、いくつかの啓示を与えてくれた)。これからの時代、アジア、特に東アジアは日本経済が生計を立てていく上でも不可欠の重要性を持つようになっていく。平たく言えば、日本にとって、アジアは欠かせないお客さんであり、パートナーである時代になるということだ。そういう相手方と「共感」し合う関係を作れるか否か、連帯の良し悪しは日本の盛衰にも影響する重大事だ。だから、後世日本人に安定した、共同繁栄を約束するようなアジアとの良好な関係を遺してやることが我々現役世代の責任だと思っている。
 しかし、同時に私は、ネーションと結びつくナショナリズムは他の連帯感と同列に論じられない格別の意味を持つと思う。言い古されたことだが、インターナショナルになろうとすればするほど、自分の起源であるナショナルなものへのこだわりは大事になると思うからだ。アジアの他の国の人と付き合っていると、それを痛切に感じる。
 日本のナショナルなアイデンティティとアジアとの連帯は、歴史問題を舞台として衝突する難しさを孕んでいる。しかし、他の国と付き合っていくにも、我々日本人が無国籍なコスモポリタンでいたのでは、「あなたは誰?」と薄気味悪く感じられてしまうだろう。ナショナリティを異にすることは前提とした上で、連帯や共感、共通利害のよすがを探し求めることが必要だと思うのだ。
 筆者が求める方向と同じかどうか分からないが、私も「第三の戦後」期を生きる日本人として、いまという時代の心情を表現し、後世日本人への責務も果たせる新しい言葉を探さなければならないと悟った。久々に「読書」する意味を実感した一冊だ。

(RIETI ウェブサイト 2003年8月11日)