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他者を理解するということ

参照:孫軍悦 日中「文化交流」再考


ある講演を聴いて、非常に感銘を受けました。


                    他者を理解するということ

  先日、中国から日本に留学している社会科学系研究者が中心となって開催するシンポジウムからお呼びがかかって出席した(中国社会科学研究会第18回年次国際シンポジウム)。テーマは 「多元化する日本と中国 」、いまや日中討論の定番テーマの一つになった 「東アジア共同体」 のほか、NGOのような民間アクターやメディアが日中関係に果たしている活動、環境エネルギー協力の必要性など、多彩で中身の濃い報告がたくさんあって啓発された。

  中でも瞠目する思いで聞き入った報告があった。東大大学院総合文化研究科博士課程に在籍する孫軍悦さんの 「日中『文化交流』再考」 だ。

  冒頭、彼女は問うた。 「・・・これほどたくさんの文化交流が行われてきて、日本や中国についての情報にアクセスするチャンスやルートもどんどん増えている状況の中で、にもかかわらず、互いに対する偏見に満ちた認識と不信感がいまだに払拭されていないのは、はたしてなぜなのか」、と。そこから 「文化」 交流に切り込んだ。

  「・・・文化交流の根本的な課題は、他者との関係をいかに構築するかということだと思います・・・異文化との出会いは、驚きや昂奮、喜びだけをもたらすのではなく、本来は、不安や不快をも強いるはずです…」今日、双方のドラマや映画、小説が相手国に紹介され、若者層を中心に人気を博している。しかし、 「・・・若者達が求めているのは、心地良い雰囲気と快感です。そして、大衆文化はそれに満足する商品を提供している・・・大衆文化を通じてのアジアにおける文化交流の問題点は、まさに、友好的な雰囲気を壊すものが排除されたこと、毒が抜かれたということにある・・・」つまり、「…過去の文化的素材が、かつてもっていた批判性や歴史性が切り取られ、消費者に娯楽と癒し を提供する商品に作り変えられ・・・他者との出会いを通して、新しい経験から喜びや苦痛、混乱、 葛藤といった複雑な感情が生まれるのではなく、心地よい雰囲気や、耽溺したい気分に合わせて、現実が遡及的に作り出されていく」 のである。

  大衆文化だけの問題ではない。彼女は、三十数年前に日本の知識人が文化大革命の真最中にある中国について議論を交わしたとき、話題に上ったのが 「党内の権力闘争、体制批判の不自由さ、ナショナリズム、所得格差、中華思想、情報封鎖、民衆の日本に対する無知、といったこと」 だったと紹介したうえで、「・・・今日の中国を考える枠組みは、文化大革命時期の中国を考える枠組みとほとんど変わらないことがよく分かります・・・果たして変わっていないのは、中国なのか、それとも(日本側の)「中国」 を見る視点、「中国」を考える枠組みなのだろうか」 と痛烈な指摘を放った。

  同時に中国においても事情は同じだと言う。別の中国人研究者の指摘、「・・・世代の交代によって、戦後の中国人の日本感覚は 「怨恨」 から 「無知」 へ転じつつあり、その中間状態としての 「無知に基づいた怨恨」、あるいはそれと表裏した 「無知に基づいた賛美」 という状況が、今日において、中国社会の日本認識の基調をなしている」 を引いて、「無知にもかかわらず、怨恨や賛美といった感情が芽生えるのは、まさに感情が現実に先行しているから」 だと言うのである。

  日中双方に共通していることは何か。「・・・現実から感情へ、感情から思考へ、思考から新たな現実へという回路を辿って現実が構築されるのではなく、感情から現実へ、という短絡的な、逆転した回路を辿っているのです。しかも、思考というプロセスがすっぽり抜け落ちている・・・そもそも思考の起源は不快にあります・・・思考の回路が閉じられると、不安や不快を解消するには、それを引き起こす原因とされる異質な他者を探し出して、取り除くしか」 ない(彼女はそう言って2003年、西北大学の文化祭で起きた日本人留学生寸劇事件を例に挙げた)。

  「・・・毒の抜かれた祝祭のような文化交流では、他者と世界を共有し、イデオロギーに抵抗できるほどの絆を結ぶことはできません。逆に、大衆文化商品の蔓延は、不快や不安に耐える能力の低下、思考の回避、他者の排除といった結果をもたらす一因になりかねない・・・そもそも、文化交流を通して相手の現実を理解し、相手についての正しい知識を身につけるという考えは、文化交流に対する最大の誤解かもしれない・・・実際、いくら否定されても、外部の人は、内部の人がまったく実感も伴わないし、リアリティもないことをしばしば本気で信じる。しかも、内部の人に指をさしてあなたのほうこそ盲目だという。・・・「中国人」 あるいは 「日本人」 への偏見に対しても、「いや、ほんとうはそうじゃないんだ 」 と答えるのではなく、「中国人や日本人に対する偏見は実際の中国人や日本人とはなんの関係もないんだ」 と言うべきです。なぜならば、イデオロギー的な他者像は、我々自身の内部の亀裂を隠蔽し、われわれ自身のイデオロギーの破綻を繕うために作り出した幻想にすぎないからです・・・」

  まったくそのとおり。日本人も偏見を受ける側に身を置くときは分かる。中国がしばしば言う 「日本軍国主義の復活」 などは荒唐無稽な妄想だ。しかし、日本人も同じくらい荒唐無稽な妄想を中国に対して抱きながら、それが 「偏見」 であることにしばしば気付かない。そう思いながら、次の結びの言葉を聞いて、唸った。

  「・・・文化交流で見つめなければならないのは、他者ではなく、自分自身です。他者を見る自らの視点のゆがみ、他者を感じる自らの感覚の鈍さ、他者を考える自らの枠組の貧弱さ、を気づかせてくれる契機が、文化交流ではないでしょうか・・・〈誤読〉と〈誤解〉、〈偏見〉の中で生産されたイデオロギー的な他者像にこそ、互いに理解し合う鍵があると思います・・・」

  以前から脳裏を漠と去来してきたいろいろな思いが結び合わさった。日本だけではない、日中関係だけでもない、昨今世界中の至るところで、「他者」 に対する偏見、不寛容、排除、自閉の気分が充満しているのはいったいどうしたことか。それは急激な 「グローバリゼーション」 がもたらした、他者との過剰接触に対するアレルギー反応なのかもしれない。おまけにその 「接触」 は相手の表情や息づかいを感じられる現実の接触でなく、往々にして偏見を共有(増幅?)するメディアを通じた仮想接触でしかない。

  中国を始めとするアジアとの共生、相互理解はこれからの日本の命運を左右する重大課題だ。我々は上記のアレルギー反応を止揚する 「弁証法」 をうまくやらなければならない。できるだろうか・・・、「他者との共生」 は縄文時代以来、日本の得意とするところだと信じたい。

  もちろん中国のことわざに言うとおり、「拍手は片手ではできない」、日本だけでなく中国にも共通に直面する問題の自覚と解決の努力を求める必要があるが、孫軍悦さんの講演はその可能性について希望を持たせてくれた。ご本人の了解を得て、当サイトの 「一押し 」 欄にこの講演原稿を転載させてもらった。皆さんにも読んでいただきたい。(孫軍悦 日中「文化交流」再考




 

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