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ブログ 津上俊哉
旧友からの手紙

懐かしい中国の友人から手紙をもらいました。忘れ得ぬ情景を思いおこし、この10年あまりの中国の変化に、暫し思いを致しました。
同時に、本ブログの閲覧者数が、ついさっき40万を超えたようです。皆様のご愛読に感謝します。


                          旧友からの手紙


  北京駐在時代に親交があった旧い友人が偶然弊サイトを見つけたらしく、問い合わせ用のアドレスにメールをくれた。私が帰国後、先方も海外赴任したり、当方も商売換えしたりで何年も行き来がなかったのだ。

  この友については、いまも忘れられない情景がある。中国が WTO 加盟交渉 (当時はGATT 復帰交渉と言っていた) で挫折を繰り返していた頃のことだ。当時発表された 「自動車産業政策」 の担当課長だった友が内容説明をするため、ジュネーブでの多国間加盟交渉に参加した。
  友に対する欧米各国代表の質問攻めは、ほとんどイジメに近かった。討議中、侮蔑、嘲笑を浮かべて目配せしあう彼らを見て、私は突如、これは日本人もかつて幾度となく体験した、悔しく悲しい情景だと感じ、説明を続ける彼に満腔の共感を覚えた。 その体験を書き綴った文章 はこのサイトにも載せてある。

  「ひょっとして、この文章を読んだか?」 と返信したら、直ぐに 「そのとおり」 という返事が来た。

  まさにそのくだりを読んだ。一目見て、僕のことを書いているのだと分かった。

  ・・・時が経つのは速いもので、あれからアッという間に 12 年も過ぎてしまった。君が書いたあの場面は、いまでもはっきり覚えている、1995 年 12 月 9 日のことだ。あの日、中国側代表団はほとんど僕一人が発言する羽目になった、朝から午後 5 時まで。そこでようやく商品検検局局長による TBT (貿易の技術的障壁) 問題の説明にバトンタッチした。

  ・・・ほんとうに疲労困憊した。数十人の各国代表から一日中、矢継ぎ早に質問を浴びせられて、終わったときはアタマが割れそうに痛かった。こっそりと龍永図首席に休憩をもらって、外で煙草を何本か立て続けに吸った。それでも気分がほぐれてこない。
  その感覚も昨日のことのように覚えている。まるで狼の群れが僕の周りを囲んで、加盟交渉の機に乗じて、隙あらば噛みつこうとしているかのようだった。君も書いたように軽蔑の眼差しと悪意に満ちた質問を浴びて、心の中は言い表せない屈辱感と怒りでいっぱいだった。それでも僕はできるかぎり、中国の状況と政策立案の背景を説明し、何とか分かってもらおうと努力した、国と国民のために。

  ・・・喜ばしいことは、あれから十何年か経って、中国にも世界にも大きな変化が起きたことだ。中国があのころ承諾した WTO への市場開放約束は、昨年実施が完了した。いまや、我が同僚が WTO 交渉に参加しても、あんな仕打ちを受けることはなくなった。最近、人民元問題や石油問題で米国の政府や議会と討論する機会があったが、僕の立場は 10 年前とは大違いなほど強まっていた。

  ・・・もっと嬉しいことは、あの交渉を通じて多くの友人と知り合えたこと、その中に最良の友人が生まれたことだ。これまでも君のことを常々思い出してきた。今回、連絡が復活できて本当に嬉しい。早く再会できる日が来ることを祈っている。


  そうか・・・私は、彼に感情移入した瞬間のことしか覚えていないけれど、友はまる一日、サンドバッグのように延々と打たれ続けたのだった。

  この 10 年の中国の発展は実に目覚ましいものがあった。その陰には友のように、外国にバカにされ、嗤われる屈辱をこらえながら 「今に見ていろ」 と誓って奮闘してきた無数の中国人がいる。
  その奮闘努力に対する報償として、今日の 「中国台頭」 はあるが、前途には依然として、長いながい道のりが続いている・・・偽ミッキーマウス、有害食品・製品の山、などなど。経済運営もバブル手前の危うい綱渡りが続いている。中国が近い将来、小蹉跌を経験してもおかしくない。
  しかし、私はそういう局面が来ても、「中国はその後二度と立ち上がれなかった」 ということにはならないと感じている。中国が停滞を迎えるか否かの正念場を迎えるのは、人口高齢化が本格化する十数年先だ。それまでの間は、途中で踊り場を迎えることがあっても再び前進する力があり、調整期の長短が問題になるに過ぎないと思う。若い人口構成、往時の日本を凌ぐ高貯蓄率、開発フロンティア (沿海と内陸の境界、都市と農村の境界) の存在、金融市場の勃興など、中国の中長期的、潜在的な成長余力を裏付ける材料は多々ある。

  もっと直感的に、中国の発展はまだ続くと感じさせる材料が、友のような世代の存在だ。貧しかった昔、悔しかった昔を 「いまでもはっきり覚えている」 世代、上の文革世代と異なり、教育も十分受けた 50 歳前半から 30 歳後半までの世代が中国社会の中核を担う時間もまた、今後十数年続く。彼らが一線にいるかぎり中国に大蹉跌はない、というのが私の直感だ。

  敗戦後の日本では、大正から昭和初年頃に生まれ、旧制高校で教育を受け、戦争と敗戦の衝撃を経験した世代が同じ役割を担った。戦後日本の奇跡の成長は主に彼ら世代に負っている。その世代が退場するや日本は大蹉跌を経験した。
  友の世代が退場し始める十数年後、中国はどうなるだろうか・・・後続世代のでき如何にかかると思うが、そこを占うには、いま暫く時間を要する。
(平成19年7月30日 記)

後記

  1995 年末は中国の加盟交渉にとって、特別な意味を持っていました。それまでに加盟交渉を終結できれば、WTO の 「創設メンバー国」 として遇されたからです。しかし、当時の米国のクリントン政権は大統領選で打ち出した 「中国人権問題を貿易とリンクして改善する」 公約が災いして、加盟交渉の席に着くことすら憚る状況でした。中国もサービス市場の開放準備がほとんどできておらず、機はまったく熟していませんでした。中国と加盟国側の溝が埋まることはなく、同年 11 月末から延々続いたマラソン交渉はクリスマス直前に打ち切られました。最後の会合で中国の龍永図首席代表が 「・・・今後は中国側から交渉を求めることはない」 と述べて、中国代表団が黙然と席を立った光景を覚えています。

  ・・・そう言っておきながら、交渉は半年も経たないうちに再開されました。チャンスあれば常に交渉前進を目論んだ点で、龍永図氏を首席とする中国交渉者は、外国に対しても国内に対しても 「したたか」 でした。しかし、中国加盟が 「本決まり」 になるには、それから更に 3 年半 (正式の加盟には実に 5 年半) の時間を要しました。その間、何度挫折しても黙々と努力を続ける中国代表団の執念と愛国心に敬服しました。(当時の 中国 WTO 加盟交渉が持った意味 について論じた小稿も本サイトにアップしてあります。お暇があればご覧ください。)

  2001 年末の WTO 加盟を契機に第三次外資ブームが起きて以来、中国は一段と飛躍的な発展を遂げました。辛くて長かった交渉を粘り強く成功させた功績を以て、交渉全体を主管していた外経貿部の課長 (処長) は大昇進して、いまは商務部の次官(副部長)に、その下で頑張った係長は局長 (司長) に昇進しています。友が経験したような屈辱の思いは交渉に参加した中国代表団の全員が何度も感じたはずですが、その後 「努力すれば報われる」 ことも全員が感じて、過去のトラウマが癒される思いをしたはずです・・・中国版 「坂の上の雲」 とも言えるでしょう。




 

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