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ブログ 津上俊哉
「政権交代」 以来の日本政治・社会を見て

『日本はどうしてこういう風なのか』 …今回は昨今の日本の政治や社会の情緒的で無思慮な有様に対して、森理論の問題意識を借りて、鬱憤晴らしをします。本当はこの10倍書いても足りないけど...。


「政権交代」 以来の日本政治・社会を見て
(森有正の 「日本語・日本人」 論 第八回)


  この連載の初回、私は 「森有正に興味を惹かれたのは、昨今の日本の政治や社会の、あまりにも情緒的で無思慮な有様を眺めるうちに 『日本はどうしてこういう風なのか』 ということをつくづく考えさせられたからである」 と書いた。何を念頭に置いて、そう書くかをいちいち挙げたら、この連載と同じくらいの分量が必要になるから、政権交代に絡む問題だけをここに挙げる。


  20年をかけた「レジーム・チェンジ」の準備が水泡に帰した

  いまの日本の政治体制、その体制が維持してきた世の中の仕組みは様々な点で維持不可能なところに来ている。大改修、リセットは不可避だが、戦後の成功体験があるゆえにたいへんな難事業だ。

  そういう難局に当たっては、どうしてもいったんは 「民主集中」 (例えば、政党にあっては派閥の権力を弱め、幹事長にカネと権限を集中させる、国会にあっては議会政治の最後の切り札 「多数決」 を行使する) が必要になる。このため、日本は1993年に小選挙区制を採用した。小選挙区制が定着し、政党に民主集中制が定着するのに10年以上かかった。その後ようやく 「マニフェスト選挙」 の作法が定着し、2009年に民主党による政権交代が実現した。ところが、昨年の参議院選挙で 「ねじれ」 が起きた結果、「政権交代」 は幕を閉じた。小選挙区制、マニフェスト選挙、政権交代...20年をかけた取り組みがこれで水泡に帰した。

  誤解を避けるために述べれば、私は小選挙区制を手放しで良い制度だとは思わない。議員が中選挙区時代以上に 「どぶ板」 に没入することになるなど弊害も大きい。ただ、昔の中選挙区制で改革のヤマ場を乗り切ることができないのははっきりしていたから、マニフェストでヤマ場を越えて新レジームが概成した後は、もう一度中選挙区制に戻すなら戻せばよいと考えていた。しかし、いまの 「ねじれ」 のままでは改革はできまい。仕組みについてだけ言えば、自民党時代の派閥連合の方がまだマシだったくらいである。2010年、日本は20年もかけて用意してきた改革のチャンスを失ったのである。

  「マニフェスト−選挙」の慣行も瓦解した

  加えて残念でならないことは、民主党がせっかく出来上がったマニフェスト−選挙という慣行を台無しにしたことである。参議院の 「ねじれ」 が生じてしまった今、2009年のマニフェストが実行困難なことは誰の目にも明らかだ。改訂しないで済むはずがない。しかし、マニフェストは公党の有権者への約束である。それで政権を獲った以上、民主党内では有権者への約束と参議院のねじれの狭間で、のたうち回るような苦渋、涙の議論が展開されなければうそである。

  しかし、主流派が立場を異にする党内各派とそういう徹底した議論をする風はなく、政権交代のときに掲げたマニフェストへの未練も責任意識もないのか?と見えた (その原因については後で私の憶測を述べる)。マニフェスト作りを主導したいわゆる小沢派も、そのマニフェストを修正せずに実現することは不可能な情勢が明らかなのに、主流派が修正を検討することに反対、批判ばかりしていた。政争を優先し、有権者への責任をおろそかにした点で同罪だと思う。

  この有様を見てとった有権者は、仮に民主党が次の選挙でまたマニフェストを掲げても、誰も相手にしないだろう。「マニフェスト選挙という慣行を捨てた」 というのはそういう意味である。そして、マニフェスト慣行が働かなくなった小選挙区制度などというものは 「害あって益なし」 の見本であると思う。

  多数決がワークしない

  20年かけた改革の準備は、ようやく整ったと思ったら潰れてしまった (ひょっとしたら、事の重み(自重)で崩壊してしまったのかしらん?) こんな有様を見ながら、最近私は、ひっきょう日本では 「多数決」 という仕組みがワークしないのではないかという疑いすら抱くようになってきた。

  念のために断っておくと、私は決して 「多数決万能主義」 者ではない。例として議会を取ろう。「多数決が全てだ」 と言うなら、アジェンダ毎に国民投票を実施すればよく、議会という組織を設ける必要はそもそもない。しかし、少数派の意見や利益を否定することは、日本ならずとも 「しこり」 を残す。仮に、「調整」 により多数派と少数派の意見や利害の不一致の溝を少しでも埋めることができるならば、多数派と少数派が一堂に会して合議で事を運ぶことがもたらす 「正統性」 を維持していくためにも、後の執行をスムースに運ぶためにも、妥協や調整を行うべきであり、そうであるからこそ議会という組織が設けられている。

  しかし、意見の一致を見ることはどうしても難しい、だが結論をこれ以上先送りする訳にはいかないという場面は、ときとして来るものである。「個」 を尊重する西洋文化が、ある意味で反対する少数の 「個」 の主張を否定する多数決を採用するのは、「個」 の尊重は他者の 「個」 の尊重と引き替えであり、「組織」 はそうして尊重すべき 「他者」 の集合体だからである。それをやらなければ多数 (というより全員) の 「個」 が尊重されずに否定されてしまい、組織が組織として立ちゆかなくなってしまうからである。いわば組織の自己保存の手段なのである。

  そういう場面では、属する集団の多数決による機関決定に服すべき、イヤならあなたには集団を脱退する権利がある、というのが近代西洋的なロゴスの世界における 「組織」、公共的な 「社会」 の常識のはずだが、日本では往々にして、機関の決定に服さないし、機関から脱退することにも同意しない、という行動が見られる。そういう 「横紙破り」 に対して、最終的には 「除名」 という制裁を以て組織の決定を守るのがロゴスの世界だが、日本では組織もそのリーダーもロゴスをなかなか貫徹できない。

  舶来の 「多数決」 に代わって日本でより用いられるのは 「全員一致」、換言すれば 「成員の一人一人が拒否権 (veto) を持つ」 意思決定である。反対者の同意取り付けのためには、「(不利益の) 補償 (compensation)」 の技法が多用される。「依然反対を唱えている成員がいるのに、それを説得 (補償で合意) せずに 『押し切る』 ことは 『強権的』 で 『和を大切にしない』、『多数の横暴』 的な振る舞いだ」 と感ずる人が少なくないということは、日本人は心の底で 「多数決」 という組織の決まりを承認していないということである。たとえ国会や会社の議事規則に多数決が定められていたとしても、それは国情に合わない 「律令」 のようなもので、「令外 (りょうげ)」 の慣行を必要とするのである。

  こう考えてみると、なぜ小沢一郎氏が嫌われるのかの根本的理由もハッキリする。彼はちっとも 「日本的でない」 のである。「マニフェストを掲げた選挙−政権交代」 は多数決原理そのものである。日本人は政権交代のムードにいったん酔ったが、根底では多くの人が 「多数決」 を承認していない。だとすれば、「政権交代」 しただけで改革ができる訳ではなかったのかもしれない。民主党政権の蹉跌には、より具体的な戦術、政策のミス、政策や思想とは無縁な人と人の好き嫌いなど様々な要因が影響したであろうが、筆者はもっと根深いところで 「多数決がなかなか通らない」 日本の国情・風俗もあったのではないかと考えている。やはり、マニフェストに基づく政権交代選挙という 「舶来の仕組み」 は、日本人伝来の判断や行動の流儀に適合しないのであろうか。

  しかし一方で、いまの政体を前提とするかぎり、マニフェストを掲げた選挙で獲得した多数に政策選択の正統性を求め、懐中には最後の切り札 「多数決」 を忍ばせる、そういう手立て抜きに大改革を進めることは不可能だという判断は、私の中で変わらない。いまの 「ねじれ」 でどうやって利害が対立する難しい改革を決められるだろうか。野田総理には頑張ってもらいたいが、世上言われる 「大連立」 構想に一言だけ疑問を呈しておく。一党内ですら物事がまとまらない、決められないのに、「大連立」 で大事業がやれると考えるのは何故かと。

  311の震災で文字通りの国難に直面した日本は、いまそういう場所に立ち竦んでいる。

  「理念や政策」 よりも 「好きか嫌いか、損か得か」

  いまの民主党は党の下に、より利益を共有し、より気の合う同士による複数の 「派閥」 を包摂する 「共同体」 であるが、派閥相互の利害対立、感情の離反が甚だしく、日常茶飯のように 「分裂寸前」 になる。そこから見ると、やはり何らかの 「理念」 の下に結集した集団というよりも、選挙での勝ち負けといった損得で寄り集まった集団だという印象を深くする。そう言えば、つい先日も国会で 「未だに綱領すらない」 ことを批判されていたっけ。

  上で、なぜ、かくもあっさりとマニフェストを変えられたのだろうと書いた。私の憶測はこうである。2009年の政権交代選挙の前に、民主党はマニフェストを 「機関決定」 した筈であり、国民はその 「公約」 を信じて投票したが、後に、このマニフェストは機関決定を形式的には経ているとは言え、それは特定派閥の主導で決まったものであって、そこに書き記された思想、政策をすべての共同体成員が、自己の選択として承認し (或いは従うべき組織の合議事項として同意し受け容れて) 決まったものではなかったことを知る。甚だしきは 「反対だったが、面従腹背した」 と公然と言ってのける幹部が出てくる始末である。

  なぜ、そういう機能不全が起こるのか、二項関係依存的で責任意識の希薄なアイデンティティ、ゲマインシャフト的で 「帰属」 するものでしかない組織 (「社会」 でなく 「共同体」 である集団)、発した、決めた言葉が指し示す客観的な意味内容には拘束されるのであるという意識の欠如 (「令外」 の倣い)…森有正の日本語分析は、様々な点で示唆を与えてくれる。

  そう言えば、若い頃、大阪人の先輩が 「人間、万事 『好きか嫌いか、損か得か』 や。日本人はその二軸しかないんや」 と言うのを聞いて、実に 「身も蓋もない」 表現だが、当たっていると思ったものだ。民主党のいまの主流派が小沢一郎氏と対立するのも、要は理念や政策の話ではなく、この二軸であろう。曰く幹事長時代の政党交付金の分配への恨み、「後から入ってきたくせにオーナー面している」 ことへの反感、ぶっきらぼうで 「ハラで何を考えているか分からない不気味さ」 (「うち解けて」 くれないことは二項関係の培養を難しくする)。

  それらの不満、違和感のすべてを、日本人として私も理解はするが、しかし、である。民主党には、とくに鳩山内閣の頃に、レジーム・チェンジという歴史的使命と2009年の総選挙で300議席を得たという国民の負託の重さをじゅうぶん自覚し、また、レジームを変えようとすると、どれほどの抵抗、攻撃が押し寄せてくるものかに思いを致して、「小異」を「捨て」なくてよい、暫時保留してでも、「大同に就」いて「内輪揉め」を避けてほしかった。

  ほかにも、マスコミ、国民に対しても言いたいことは山ほどあるが、ここで止める。今後、森理論で得た問題意識に強くヒットするような出来事があれば、そのときに本ブログで開陳することにするとしよう。
(平成23年9月24日 記)







 

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