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「日露戦争 資金調達の闘い」 を読んで

ツイッター上でいろいろ教えて頂いている@porcobuta(板谷敏彦)氏の近著の読書感想文です。


「日露戦争 資金調達の闘い」 を読んで
金融史の含意と帝国日本の教訓





  本書は20世紀初頭、日本が日露戦争の戦費を調達した国際債券市場という視点から、当時の日本という国や日本が置かれた国際環境を活写した本である。内外の証券界で働き、今も一線にある著者板谷敏彦氏は、本業の傍ら本書執筆のために、当時の新聞から日露両国の公債価格を日計りで調べ上げた。未だ大陸間の往来に船便で数週間を要し、電信も十分発達していなかった時代だが、両国の公債価格は戦局その他の事件に敏感に反応しており、国際金融界が戦況に寄せた関心の高さは半端なものではなかったことが分かる。今日に至る金融のボーダーレス性をそこに見る思いがする。

「いちか、ばちか」 の戦争

  読後にまず痛感することは、ロシア南進によって朝鮮半島を脅かされ、安全保障の崖っぷちに立っていたとはいえ、日本はなんと無謀な戦争に踏み切ったことか、ということだ。海戦では奇跡的大勝利も収めたが、陸で兵力も弾薬も使い果たし、賠償金を取れない不本意な講和を余儀なくされた経緯は広く知られている。しかし本書を読むと、日露戦争は戦費調達の点でも、既に開戦前から 「いちか、ばちか」 の戦争だったことがよく分かる。

  当時の日本経済は、名目GNP約30億円、国の一般会計予算約3億円、日銀券発行残高約3億円、全国預金残高7億6千万円というサイズでしかなかったという。これに対して開戦前に4億5千万円と見積もった日露戦費は、最終的に15億円 (正味) にまで膨張した。その8割以上を借金で賄った結果、開戦前に56百万万円しかなかった政府の内外債務は、戦後の1907年には実に22億7千万円 (名目GDPの60%、一般会計予算の3.8倍) にまで増大、戦後の政府予算は長く3割以上が国債利払費に当てられ、増税により国民の租税負担は倍増したという。

  莫大な借財を遺しただけではない。今日では実感が湧かないが、当時採用したばかりの金本位 (通貨) 制度が経済財政の運営に厳しい規律を求めていた事情が、戦争遂行にもう一つ重大な制約を課していた。戦争遂行のためには内国でも国債を発行する必要があるが、通貨発行量が増大するから、それに見合う正貨 (金と同視された当時の英ポンド) 準備の積み増しが求められる。さらに、軍艦など兵器の多くを輸入に頼らざるを得なかった当時の日本は、輸入増大に伴って流出する正貨も補填しなければならなかった。正貨準備が枯渇すれば金本位制を離脱せざるを得なくなるが、円の国際信用は失墜し、輸入代金はいよいよ支払えなくなる。その意味で、戦費を膨大な借金で賄うだけでなく、正貨準備が枯渇しないように国際金融市場で公債を発行してポンドを調達することもまた戦争遂行上の必達事項だった。

  しかし、戦争突入の見通しが強まる中で、内外ともロシア優勢を予想する向きが大勢、日本の発行済み海外公債は (国内の株式相場も) 暴落してしまう。日本政府は開戦必至という段になって、海外公債発行の目処が全く立たない状況に直面した。著者はそのことを公債価格と発行条件という冷徹な数字を示しながら浮き彫りにしていく。

  その困難な戦費の調達で八面六臂の大活躍をしたのが本書の主人公、高橋是清である。日露戦争の前後で22億円増えた国の借金の過半、12億円分は海外で発行した公債だが、その発行に伴う交渉を高橋が一手に引き受けた。本書が持つもう一つの魅力は、不案内なロンドン金融市場で公債発行の仕事を始めた傑物高橋が、持ち前の能力と人柄で、急速に欧米金融界の大立て者たちの知遇を得て、最後には英国王に拝謁するに至る人物像を活写する点である。もちろん有利に運んだ時々の戦局が味方しているが、彼の活躍により日本の公債は 「ジャンク級から投資適格級へ」 と出世していくのである。本書は高橋の活躍ぶりを冷徹な数字とうまく取り合わせて描いている。金融のプロによる評価だから、情勢分析に説得力がある。

消えた満鉄外資合弁構想−賠償金獲得不調の後日談

  日本が莫大な戦費を投じた背景には 「勝てばロシアから賠償金が取れる」 という仮定があったが、けっきょく賠償金は取れなかった。よんどころなく締結したポーツマスの講和は世界のメディアから 「外交上の敗北」 と評された。日本に継戦余力が全く残っていないことを知らされていない国民たちの怒りは爆発、「日比谷焼き討ち事件」 が起こり、講和交渉に当たった小村寿太郎は激しい非難を受ける…筆者 (津上) もそこまでは知っていたが、幾つかの後日談があることを本書で知った。

  第一はロシアから獲得した南満洲鉄道を公債発行で世話になった米国資本 (鉄道王ハリマンら) との合弁事業とする構想の行く末である。米国側が希望した資本参加に応えることは、公債引き受けの恩義に報いるだけでなく、日本の資金調達は戦後も逼迫続きだったこと、戦中に欧米の支持を取り付けるため 「満洲の門戸開放」 を公約の如く唱えていた経緯、満洲に米国の権益を引き込めばロシア再南進への対抗策ともなること等々から、当初は 「日本の政財界のコンセンサスに沿ったものだった」 (本書376頁) という。これは押さえておくべき重要なポイントである。

  高橋は米国側の参加意向がよしなに取り払われるよう、陰で手を尽くした。それは 「桂(太郎首相)・ハリマン覚書」 としていったんは結実するが、けっきょく破棄されてしまう。日本政府は当初日清間の条約をたてに 「日清両国以外の参加は難しい」 と言い訳するが、1年後に行われた南満洲鉄道のIPOでは清国人の応募を排し、日本人が100%を所有した。「門戸開放」 は何処かに消え去った。それは欧米にすれば 「満洲におけるロシアが日本に替わっただけ」 の話だった (424頁)。ハリマンだけでなく米英政府も騙されたと憤ることになった。

大陸侵略路線の起点

  日露戦争でも 「武士道」 ぶりを発揮した明治の指導者達が方針を急展開させて人を騙すような真似をした背景には、日比谷焼き討ち事件で爆発した 「国民感情」 と冷徹な 「国家利益」 の両方が絡んでいた。筆者 (津上) が本書から得た最大の収穫はこの点だった。

  外資合弁案を葬る先頭に立ったとされるのは小村寿太郎であり、小村は 「日本人の血を代償に獲得した戦利品である南満洲鉄道を金で売るなどという事は、国民に申し訳が立たず到底できない」 (387頁) と述べたという (もっとも、著者はここには 「ポーツマス談判で辛い思いをさせてしまった小村」 に世評を挽回させるための脚色が加わっているとするが)。著者は、この種の感情は 「日本だけのものではない」 とする一方 (例として、第一次世界大戦後の英国世論を引用)、「日本人の血を代償に獲得した南満洲鉄道……」 のお題目は…日本を満洲に固執させ、やがて第二次世界大戦へと導いていく呪文のようになっていく」 (387頁) と評する。

  「血の代償」 の呪文は後年 「英霊」 と表現されるようになる。1937年、多分に偶発的に始まり 「不拡大方針」 も標榜された日華事変がずるずると泥沼化していく背景にも、軍部を中心に 「おめおめと引き下がっては (緒戦の上海戦などで大量に戦死した) 英霊に申し訳が立たない」 という抗しがたい空気があった。度の過ぎた国民感情、空気がタブーを生み、国を滅亡の淵に立たせる…日本がいまも汲むべき教訓であろう。

  冷徹な 「国家利益」 というのはこうだ。著者は本書で、国民感情問題とは別に、満洲軍参謀総長児玉源太郎と児玉が台湾統治の実績を高く買っていた後藤新平が満鉄を介した満洲植民地化プランを暖めていたことを示している。後藤が作成した 「満洲経営策概略」 には 「戦後満洲経営の要訣は、陽に鉄道経営の仮面を装い、陰に百般の施設を実行する…鉄道以外には少しも政治や軍事に関係していないように仮装すべきである」 と記してあった (382頁)。南満洲鉄道は、もはや単なる 「鉄道事業」 ではなく、満洲植民地化政策を仮装する役割を負うことになり、外資合弁構想が成り立つ余地はなかった。違約の原因は 「国民感情」 だけではなかったのである。

  この経緯について、著者は 「歴史に 「たられば」 はないが、日本がもう少し柔軟に南満洲鉄道への外資参加を扱えていたら…その後の日本の歴史も大きく変わっていたのかもしれない」 (447頁) と評している。著者も同じ感想を持つ。日露戦争以降、日本綿製品の対中輸出が増大し、中国から英国製綿製品を駆逐していったとも聞いたことがある。

  公債発行で日本を助けた米国の対日観、対日政策は日露戦争以降、次第に変化し (例:黄禍論)、第一次世界大戦後は日本を明確に仮想敵国と位置づけていくこととなる。それは 「地政学」 的な視点から当然と評されるのだろうが、本書のように経済の動きを丹念に追っていくと、その根底には、より可視的で追体験可能な経済利益を巡る衝突やこれに伴う双方エリート間の感情の好悪が伴っていたことが浮かび上がる気がするのである。

  手短に言えば、帝国日本は20世紀前半期、中国の権益を独り占めし、列強を排除しすぎた。日米戦争開戦直前の1941年、日本が「最後通牒」と受け取った 「ハル・ノート」 の要求には 「(満洲を含む) 中国からの撤兵」 が含まれていた。これを起草した国務省ホーンベックは 「桂・ハリマン覚書」 の故事を知っていただろうか、とふと思った。

「いっぱい、いっぱい」 で走り続けた帝国日本

  しかし筆者 (津上) は、「だから、日本が強欲すぎたのだ」 と単純に断ずることは、当時の歴史の真実から離れてしまう気がして躊躇を覚える。日本の人口は明治初年の3500万人足らずから1940年の7000万人へと、わずか70年の間に倍増した。最近の流行に従えば、さぞかし 「人口ボーナス」 に与っただろうと思われるが、そうではない。国内にあっては財閥支配や地主・小作構造が所得の公平な分配を妨げたし、国外から資本を導入することも今ほど簡単ではなかった (資本移動は、本書が示すように、今日から想像するより活発だったが、所詮今日の比ではないし、金本位制の規律も働いていた)。「人口ボーナス」 というより 「マルサス人口論」 的な人口圧力に喘いでいたのではないかと思われる。

  一言で言えば、明治以降の日本は、日露戦争の 「いちか、ばちか」 だけでなく、経済的にも国民意識の上でも 「いっぱい、いっぱい」 のまま走り続けた感がある。昭和初期の国民が 「大陸進出」 という名の侵略に罪悪感を感じるどころか、これに期待し声援を送った背景には 「娘身売り」 に象徴される 「農村窮乏」 等の厳しい経済事情があった。それは戦前のアジア侵略を免罪する事由になりえないが、そういう 「懐事情」 を抱えていると、「長期的安全保障を期する観点から、大陸権益を独り占めせず、列強にも均霑する」 といった路線は支持を得にくかっただろうと思う (「それどころではない」)。

  著者板谷氏が本書を執筆した最たる動機は、日露戦争当時の国際資金調達の苦労が、早晩到来するであろう今後の日本の経済財政事情に重ね合わさって見えるからだろうと推測する。つまり、少子高齢化に伴い莫大な国債発行残高の大半を国内で消化することができなくなったとき、日本は再び高橋是清のような国際インベスター・リレーションズの手際を必要とするようになるという予感である。

  しかし、筆者 (津上) は本書から、そうした金融的含意以上の歴史学習をさせてもらった。著者の研鑽に敬意を表すると同時に、感謝する次第である。
(平成24年3月11日 記)


追記:これだけ書いてもまだ書き足りないから、筆者のブログはいつも 「牛の涎」 になってしまうのだが、これだけは書き足しておきたい。

  本書で、「えっ」 と感じたのは、旅順港を根拠地とするロシア太平洋艦隊は1904年8月の黄海海戦で大きな損害を出し、事実上壊滅状態だったという指摘 (232頁) である。これは著者独自の意見なのかと思って調べたが (と言っても Wikipediaのかぎり)、果たして 「後年の史実研究により…艦隊としての戦闘機能は失っていたことが判明している」 とあった。もしそうなら、戦局を半年遅らせて戦費をますます膨張させ、6万名もの死傷者を出して 「英霊」 の呪縛を強めてしまった 「203高地」 攻略戦には何の意味があったのか?

  「バルチック艦隊」 への恐怖感はそれほどに強かった (「アジア太平洋艦隊が温存されて「バ」艦隊と合流されたら…」) ということかもしれないが、そのために払った代償の重さを思うとき、日本陸・海軍は旅順港にスパイを送り込むことができなかったのだろうかと思えてならない。遠くペテルブルグでロシア革命運動を扇動して鮮やかな成果を挙げたと称揚される明石大佐の故事と比べて、あまりにお粗末、罪作りではないか。なにかと美化されがちな日露戦争であるが、「坂の上の雲」 から離れて、冷静に再評価することも必要ではないかと感じさせられた。




 

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