「遊牧民から見た世界史」(著者:杉山正明 京大教授)を読んで(前)
仕事が忙しくてずいぶん長い間ブログの更新をさぼってしまいました、おまけにまた長文・・・_(._.)_
今回は、遊牧民族の歴史から「中華思想」のことを考える、前編です。
「遊牧民から見た世界史」(著者:杉山正明 京大教授)を読んで(前)
遊牧民族の歴史から「中華思想」のことを考える
この「ブログ」で、読んで面白かった本を紹介したい。 第一号は「遊牧民から見た世界史」(著者:杉山正明 京大教授)だ。取り上げられているのは、3000年以上にわたりユーラシアを文字どおり股にかける活躍をしながら今日過小評価されている遊牧民族だ。本書を読むと、中国の歴史は遊牧民族の歴史抜きでは到底語れないことがよく分かる。
著者は漢族=中華と非漢族=夷狄を対置する「華夷思想」がもたらす偏見と先入観を繰り返し指摘する。例えば、少なからぬ「中華王朝」が実は漢族の出自ではなく、夷狄とされた遊牧民族の出自と推測されることが明らかにされる。古くは春秋戦国時代の東周、始皇帝を生む秦がひろい意味での‘羌族’(チベット系)の出自であること、隋(589?618年)や唐(?907年)の王朝も‘鮮卑’の一部族、‘拓跋部’に出自を持つ王権だった。「じつのところ、中国史上をつうじて純粋の漢族王朝といえそうなのは、漢、宋、明くらいでしかない」のである。
遊牧民国家は中国史の二人主役の片われだと言ってよいほど「中華」の歴史に介入していた。漢族王朝である前漢は高祖劉邦の創建以来半世紀にわたって、貢物をして皇女を嫁がせる「匈奴帝国の属国」だった。唐朝も創建期に力を借りたせいで初期は‘突厥(テュルク)’帝国の属国に近く、安禄山の乱(AD775)のときに新興勢力‘ウィグル’遊牧国家の力を借りたせいで、その後ウィグルと貢物を伴う平和共存関係を続けた。次の北宋(960年?1127年)時代の‘夷狄’は耶律阿保機で有名な‘キタイ族’(契丹、後の遼)だった。キタイ族は当時、燕雲十六州(北京から山西省大同の一帯)を領有支配していたばかりでなく、南方にあった北宋に貢物をさせる平和共存関係を結んでいた。
多くの中華統一王朝が夷狄の援助を受けて創建されただけでなく、安定期の裏には遊牧民国家に貢物をする平和共存関係があった。加えて、安定王朝と安定王朝の間には分裂・混乱期が挟まる訳だが、これがたいてい夷狄による政権交代の連続だ。例えば拓跋国家が世間交替を繰り返した‘五胡十六国’から‘南北朝’に至る時代(304?589年)やテュルク系の‘沙陀族’が政権交代を繰り返した‘五代’の分裂時代(907?960年)などだ。つまり中国、とくに華北の歴史には、漢族と夷狄という二人の主役がいたのに、我々は歴代王朝が政治的思惑を込めて編纂した中華「正史」のバイアスに慣らされているせいで、もう一方の主役のことをよく知らない。本書を読むと目から鱗が落ちる思いを何度もする。
「遊牧民から見た世界史」著者:杉山正明、日経ビジネス文庫所収、ISBN4-532-19161-0
(以下、次号に続きます)
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