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「氷点」停刊事件から垣間見る中国「言論の自由」の素顔

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             「氷点」停刊事件から垣間見る中国「言論の自由」の素顔



  今年の春節直前の1月下旬、「中国青年報」 の人気週刊欄 「氷点」 が停刊処分を受けたことが世界中に報じられて騒ぎになったことを憶えておられるだろうか。
  同欄は1月11日、中山大学 袁偉時教授の 「現代化と歴史教科書」 という論文を掲載した。袁教授はこの論文で19世紀清朝末期に起きた二つの排外事件(円明園焼討事件と義和団事件)を題材にとって、当時の中国 (民衆) の行動には狭隘な排外主義的性格があり、それが後に大きな災厄を招いたと批評するとともに、中国の教科書が今なお 「 『洋鬼子』 は侵略者であり、中国人がすることこそ道理に合っている」 式に教えていることについて、時代に合わず、有害だと批判したのである。次世代の中国人に、自分に対する 「熱狂」 や 「排外敵視」 を教えてはならない、という考えに立ったものだという。
  これがメディアを統制する中国共産党中央宣伝部 (以下 「中宣部」 ) の逆鱗に触れた。「氷点」の李大同編集長は気骨あるジャーナリストで、この論文掲載以前にも中宣部の神経を逆撫でする報道を何度も行っていたらしい、それで 「堪忍袋の緒が切れた」 のである。「(「氷点」 の本報道は)中国人民の百年余りの反侵略闘争を否定し、その矛先を中国共産党と社会主義制度に向けて  いる」・・・「我が国の主流的な認識と相反する文章を絶えず掲載して、党の思想陣営に一度ならず重大な誤った観点を撒き散らしている」 ・・・ 中宣部 「報道検閲班」 の批評は、時代がかった激しい言葉で「氷点」 を攻撃した。停刊処分はこの圧力の下、「中国青年報」 の上部機関、共産主義青年団の手で下された。
  李編集長ら同欄の編集陣はこの処分と闘った。外国メディアの取材に応え、公開質問状を出し、党中央紀律検査委員会にも訴えた。言わんとするところは、? 論文に異論があるのは当然だが、それは反論の形で行えば良く、党の方針に反するからと言ってメディアを抹殺するのは何の法的根拠も道理もなく、共和国憲法の保障する言論の自由を侵害する行為だ。? 今回の無思慮な言論封殺のせいで、中国の対外イメージは傷つけられ、台湾同胞にも中国の民主問題について深刻な疑問と衝撃を与えるなど、かえって国益が著しく害された、といったところにある。
  事件は大きな国際的反響を呼んだ。それだけでなく、中国でも元中宣部長・中央委員等の資格を持つ党やメディア機関の高官OB 13名が今回の中宣部の措置を厳しく断罪する共同声明を発表するといった驚くべき出来事まで起きた。事態を重視した党中央は、停刊処分を行った1月24日から3週間あまり後の2月16日、「氷点」 の復刊を認める決定を行った。ただし、李編集長と副編集長の2名は解任された。
  媒体は復活させるが、人間は入れ替える・・・形こそ、中国メディア処分にお決まりの 「落着」 スタイルだったが、復刊のタイミングが異例に早かった。そんなに早く復刊を認めたら、「今回の中宣部判断は当を得ないものだった」と、中宣部への叱責を暗示するに等しい、という慎重論は上層部になかったのだろうか。内外の反発の強さに押された一面はあったのだろうが、同時に 「それじゃ、アレは当を得たものだった、とでも言うのかね?」 という意見がかなり強かったのではないか。「喧嘩両成敗」 には到底及ばないが、李編集長らは自らのクビと引き換えに、中宣部にささやかな一矢を報いた、くらいは言えそうである。

  事件から半年以上経った今頃になってこの事件を取り上げるのは、今夏日本で出版された 「 『氷点』 停刊の舞台裏 」(日本僑報社刊) を読んだのがきっかけだ。読む人によっては 「やはり中国は我々と価値観を異にする国だ」 という思いを新たにするかもしれない。しかし、私自身は、 中国の言論統制について、もっと得体の知れぬ不気味な先入観を持っていたせいかもしれないが、この本を読んで逆に勇気づけられたし、いろいろな意味で今の中国人に共感した。

  本書が最も精彩を放つのは、論文掲載から停刊処分が下され、さらには事態の 「収拾」 に向かうまでの、新聞社内、友人知人、そして、党組織や検閲当局とのやりとりを生々しく再現している点だ。読者はそこから、中国のいまの言論統制の現場を垣間見ることができる。例えば、きわどい報道のOB線はどこら辺に引いてあり、OBは誰がどのように判定するのか、OBを打ったジャーナリストはどのような目に遭うのか、などだ。
  「想像していたよりも自由がある」 というのが偽らざる感想だ。処分後、取材に殺到してきた海外メディアが李編集長に面会したとき、一様に 「あなたは絶対に捕まったと思っていた」 と述べたのも同じ印象からだろう。実際には、李編集長は停刊になった後も、毎日職場に出勤し、海外メディアの来訪インタビューに応じて言いたいことを述べ、社外とメールをやりとりし、職場から抗議声明を出していたのだ。

  「氷点」は暫時とはいえ停刊処分を受けた、編集長は最終的にクビになった。中宣部の懲罰は疑いもなく、中国のジャーナリストを改めて萎縮させたであろう。しかし、考えてみれば日本だって、そう安閑としておれない。さいわい日本に 「中宣部」 は無いが、その代わりメディアに自主検閲をさせる 「空気」 がある。昨今は 「空気」 の逆鱗に触れるような発言をすると、メディアも政治家も脅迫を受けたり、果ては実家に放火されたりする。意に沿わぬ発言や報道に対する制裁の加え方や実行者は違っても、報道や言論に対する萎縮効果は似たようなものだ。中国と日本 ・・・ 言論の自由に関する限り、「価値観と体制を異にする」 と大仰に言うほどの差がなくなってきている、残念だが。

  本書の怒りは、頑迷固陋の中宣部イデオロギー司祭だけでなく、新聞社の上司や上層機関である共青団の党官僚など、中宣部の意向を体して処分に関わった人々の 「官僚主義」 にも向けられている。長くなるが引用する。

  (この処分で傷つけられる) 道徳人格?国際的イメージ?「そんなもの、上層部も気にしていないのに、自分が気にする筋合いではあるまい」、これが今中国官界の各レベルの官僚が持っている典型的な生きるための心得である。心にどんな考えをもっていても、ひたすら上層部の意向に従うという彼らの行動パターンの決め手にもなっている。彼らの大部分は、最低限の道徳的正義感が無いわけではないが、今のポストを放棄したくないと思っている限り、みな官界の 「無言の掟」 に従わざるをえない。このようにどのレベルの官吏も法律や大衆への責任を放置したまま自分の損得しか考えない行動パターンが重なって、官僚体制全体の大きな惰性・慣性となる。ひとたび決定を誤ると、例え全員がそれに気づいたとしても、自発的に進路の修正を名乗り出る官僚が一人もいないのだから、体制全体が惰性で誤った道に進んでいき、そのミスが災難と化した時、漸く最高指導者がブレーキを掛けようと命令をくだす・・・これが専制体制の性である。                             (同書46頁)

  これを読んで私は思わず笑った。李編集長は 「専制体制」 と書いたことにも見られるように、この性癖を中国特有の恥ずべき現象だと考えているが、「悲嘆しなさんな」 と言いたい。官僚組織の生態に関する限り、あちこちの政府スキャンダルに見られるとおりで、中国も日本も欧米も大した差異はない。ここに書かれていることは、どこの官僚組織(企業組織を含む)にも大なり小なり見られる組織ガバナンスの病理現象であり、中国特有、専制体制特有の現象などではない。

  一番楽しく読めたのは、停刊処分後にネット上に寄せられた一主婦の書き込みだ。愛読者の亭主が停刊を知って、何も手に付かないほどショックを受けて不機嫌になった。それで一家の夕食が台無しになったことに怒った彼女は、近所が止めに入るほど派手な夫婦喧嘩をしたという告白記、少しひねりを利かせた応援歌だ。
  恐らくこの御亭主だけでなく、多くの愛読者が理不尽で非道な今回の処分に怒り、「こんな事件を外国が知ったら、中国はどう見られることか」 と、自分まで顔がつぶれるような思いがしたのであろう。
  中宣部のような検閲組織が公然かつ制度的に存在するのは中国特有の現象だ。しかし、その下に置かれている中国人が、そういう無念、やるせなさを今回の事件に感じている、と知るだけでも、我々は 「中国人も正義感や理性があり、我々と変わるところはない」 ことを確認することができる。8月13日付けの本ブログで、政治的な自由がないことについて 「大多数の 『ノンポリ』 国民はそれほど不便や不満を感じていない」 といった趣旨のことを書いたが、訂正する必要がありそうだ。

  今回の処分に対しては、元中宣部長といった高位者を含めた官界、言論界OBの連名抗議声明が発表された。こういう老幹部たちは意外と勇敢で吹っ切れており、非公開の場では党や政府のやり方を痛烈に批判することもしばしばあると聞いていた。しかし、今回は公開声明だから、ほんとうに異例のことだと言える。それでも (と言うか、それゆえにと言うか)、停刊処分が根底から覆ることはなく、中宣部の検閲は今日も続いている。
  中国言論の自由の行方をどのように占ったらよいのだろう。私は今回の件で、中国共産党は様々な既得権益が共棲しあう、意外や分権的な権力組織であり、トップダウン的な意思決定を容易に下せない組織ではないかという想像をますます強めた。
  中宣部などのイデオロギー官僚も強大な発言権を握る党内既得権益集団だ(さしづめ、「宣伝族」 といったところか )。彼らと不用意に事を構えたり、動揺を与えたら、日夜腐心している 「団結、穏定」 も揺らぐだろう。よって、検閲部門にいっぺんに暇を出すような改革が一朝一夕に打ち出せるはずはない。
  しかし、党中央にせよ政府ハイレベルにせよ、今回の件を見るにつけて 「歴史イデオロギーや言論統制のあり方は今後の国情に合致するように修正しなければならない」 と感じた指導者は多いはずだ。既得権益調整の難しさに加えて、「では、どうやって言論を自由化していけばよいのか?」 のハウツーがなかなか見つからないことが核心の問題だが、「時間がない」 という焦燥感は高まっていると思う。

平成18年10月3日記

『氷点』停刊の舞台裏―問われる中国の言論の自由 (ISBN 4-86185-037-C0036)
李 大同 (著)  三潴 正道(監訳) 而立会(訳) 日本僑報社刊




 

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