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「大東亜戦争」 の時代背景と心情 (その3)

今回が『「近代の超克」 とは何か』 の歴史部分に関する感想文の最終回ですが、歴史部分は同書の半分であり、次回は同書の後半、アジアと近代の問題、今日再び言われる 「東アジア共同体」 の問題などに触れます(それが最終回です)。


「大東亜戦争」 の時代背景と心情 (その3)
「あの戦争」 は 「一つの戦争」 か 「二つの戦争」 か


  さて、前回は長々と 「支那事変」 の泥沼化と事後収拾策として生まれた 「東亜新秩序・東亜協同体」 論に紙幅を割いたが、本稿の元々のお題は 「対米英開戦の報道がほとんどの日本人を大きな感動の渦 (「もやもやの晴れた、からりとした気持ち」) のなかに置いた」 のは何故か? だった。

  前回引用した 「東亜新秩序・東亜協同体」 論を読んで直ちに分かることは、これは前々回に引用した京都学派の 「世界史的立場」、「世界史の哲学」 論に3年先んじて同じことを言っているということだ。そこから直ちに浮かぶ疑問は、米英と開戦した昭和16年 (1941年) に国民が日本の 「世界史的立場」 に感動したのなら、昭和13年 (1938年) に同じ考えを提唱した 「東亜新秩序」 論にはなぜ感動しなかったのか?ということだ。

「支那事変」 の持つ不透明性 ? 国民自身にあった疑念

  この核心問題について、本書は京都学派の一人、高山岩男の述懐を引用してこう指摘する。
高山は 『世界史の哲学』 の 「序」 でその本の内容を京都大学の教室で語り始めた頃のことを記している。それは 「支那事変の勃発後」 のことであったという。「日頃教室で顔を合せてゐた学生で、卒業後戦地に赴く人々が出てきた頃」、すなわち昭和16年の大東亜戦争勃発に先立つこと2、3年の時期であるだろう。教室の学生たちが彼に投げかける問いは、「支那事変の本当の意義が何処にあるか」 にあった。高山の講義における世界史的立場からの回答は、この問いを彼に向けた学生たちを納得させるものではなかった。「支那事変のもつ複雑な性格は、私の世界史的立場からの議論も真実に納得は与へ得ない如くに思はれた」 と高山は書いている。自分の世界史的立場からする議論の説得性に高山は不安をもっていた。しかし大東亜戦争の勃発とその戦争の推移は、高山の不安を払拭した。彼はこう書くのである。

  大東亜戦への推移拡大によって、支那事変の帯びた不明朗な性格は払拭せられ
  て、今や極めて明朗な一筋道を追ふに至り、動 (やや) もすれば沈滞し勝ちだった
  道義的生命力も溌刺として発現するに至ったのを喜ぶと共に、支那事変当初餞
  (はなむけ)として贈つた議論への責任も果されたのを感じたのである。
  (本書20ページ)


  この点は高坂正顕、高山岩男らが開戦の翌年、昭和17年(1942年)3月に開いた2回目の座談会 「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」 でいっそう明らかにされている。
西谷「今までの支那に対する行動がある程度やはり帝国主義的に誤り見られる外形で動いてゐた。政策的にもさういふ風に誤り見られる形をとつてゐたかも知れないが」
鈴木 「つまり不透明さがあつたんですね。」
西谷 「一種の不透明さがあつたと思ふ。しかしそれにある意味で当時の世界状況、歴史発展の段階では免れ得ないところだったと思ふ。ところが、外から帝国主義と誤り言はれた行動でも現在から振返って現在との連続で考へてみると、もっと奥に別の意義があったわけだね。・・・現在では日本人はそれをハッキリ自覚して、過去の意識の不透明を清算し…。」
高坂 「さう、過去の不透明の意識を清算しなければならぬ。」
鈴木 「同感ですね。」
西谷 「日本の対支行動がそのやうに誤り見られた外形をとって現れたといふことは、当時の世界秩序から歴史的に制約されてゐた。併しその行動が現在、大東亜の建設といふやうな、或る意味で帝国主義を理念的に克服した行動に、必然的に繁って来てゐる。そこから振返ってみると、過去の行動にも、帝国主義的としては説明出来ない隠れた意義が潜んでゐたといふところが解って来る。」

(高山は)「過去の日支関係をジャスティファィするものが今日の大東亜戦のイデーだと思ふ」 と発言した。「支那事変」 の正当性は、「大東亜戦争」 の理念と遂行とによっていまはじめて実証されたというのである

・・・「支那事変」 が簡単にジャスティファィできない不透明さをもっていたのは、それが少なくとも外形的には帝国主義と見誤られる軍事行動であったからだと彼らは言っているのである。そう 「見誤った」 のは日本の外部の人たちだけではない、内部の彼ら自身 (=日本人、筆者注) もその疑いを内心にもっていたのである。 (以上本書127?128ページ)

  戦時中の 「言論統制」 を思い起こせば、ここに書かれている 「支那事変」 の 「複雑さ」 や 「不透明さ」 はずいぶんと勇気の要る表現ではなかったか。あるいは書かれていることは機微きわまりないのだが、当時は (検閲に当たる側も含めて) 「みんなそう思った」 ということだろうか。

対米英開戦の報せに「救い」を感じた国民

  昭和13年 「東亜新秩序」 論が提唱された当座に国民が 「もやもやの晴れた、からりとした気持ち」 にならなかったのは 「支那事変」 を後付けの理屈で正当化しようと試みる蝋山の言説が日本国民にとってさえ 「ハラ落ち」 するものでなかったからだ。国民が 「東亜新秩序」 論を諒とするには、さらに対英米開戦という背水の陣が必要だった。
  「もやもやの晴れた、からりとした気持ち」 の源の半分は、積もり積もった米国への反感が真珠湾攻撃の大戦果で噴出口を得られたことにあるが、残り半分は 「支那事変」 は不正義の戦争ではないのかという内心の懊悩が 「晴れた」、対米英開戦によって信じられる大義名分がようやく得られたという 「救い」 にも似た感覚が生まれたからだ
  昭和17年7月に開催された 「近代の超克」 と銘打つ座談会の冒頭で司会の河上徹太郎が言った言葉もそのことを暗示している。
・・・殊に12月8日 (開戦の日) 以来、吾々の感情といふものは、茲 (ここ) でピタッ
  と一つの型の決まりみたいなものを見せて居る。 この型の決まり、これはどうに
  も言葉では言へない、つまりそれを僕は 「近代の超克」 といふのです」
     (『文学界』昭和17年9?10月号からの引用 本書28頁)

  しかし、この 「晴れた」、「救い」 の感覚について本書は次のように評している。
知識人も、国民も、12月8日の宣戦に感動し、晴れやかな気分を味わったのである。それは曖昧な 「事変」 のはっきりした回答を 「戦争」 に見出したからである。中国に対する帝国主義戦争ではないかという 「事変」 に抱いた人びとの疑惑は東亜の恒久平和を確立するための対米英の 「戦争」 の開始によって一気に払われたのである。だが感情的な自己理解の上で 「事変」 への疑感は払われても、「事変」 も 「戦争」 も帝国主義戦争である事実において変わりはなかったのである。ただアングロ・サクソン的世界支配に対する被抑圧的アジアからの 「戦争」 という地政学的理由からくる正当性の感情が、中国における 「事変」 の不正を覆い隠したのである。 (本書212ページ)


「支那事変」 は 「世界戦争」 化した

  続けて本書は重大な指摘をする。
昭和13年 (1938年) には 「支那事変」 はすでにヨーロッパの戦争危機に呼応して、世界の諸列強をその背後に組み分けていくような世界戦争の性格をもっていた ・・・ 世界的な日中戦争が、世界の新秩序すなわち 「東亜新秩序」 の構想を要求するのである。それが近衛の声明であり、蝋山・三木らの 「東亜協同体」 論であった
・・・ところが京都学派の哲学者たちは、「大東亜戦争」 の宣戦に接してはじめて、これが 「支那事変」 が秘かにになう世界史的意義の実現の戦いであることに気づくのである。ここで明らかなのは、京都学派の彼らにとって日本の世界戦争はいま、昭和16年12月8日の米英に対する宣戦とともに始まったということである。彼らだけではない、ほとんどの日本人がそう思ったのである。
・・・ だがここには錯誤の感動というべきものがある ・・・ それはいま私たちが 「アジア・太平洋戦争」 と呼ぶ戦争を 「支那事変」 と 「大東亜戦争」 の二つに分かちながら、世界戦争は昭和16年12月8日に始まったとする錯誤である。
京都学派の哲学者たちは 「支那事変」 には 「一種の不透明さがあった」 といっていた ・・・ むしろ彼らは 「事変」 そのものを見ようとはしなかったのではないか。 これは帝国主義戦争ではないかの疑いをもちながら ・・・ 見ようとしなかったのは、「支那事変」 が中国とその人民を敵として戦われている帝国主義戦争の事実であった。・・・「事変」 は国民のもやもやした感情のなかで引きずられていく未決の事態であったのである。12月8日は国民のこの未決の事態を一気に解決した。・・・ 東亜の真の解放と自立のための戦いはいま始まったのである。
・・・ しかしこの開戦の感動のなかで、国民は 「事変」 の事実をいっそう遠ざけていったのである。「支那事変」 に日本は100万の軍隊を投入しながら、「事変」 は日本人にとって正真の戦争ではなかったのである。昭和16年12月8日、日本人は錯誤の感動に、自らを欺く感動に浸ったのである。 (本書132?134ページ)


  「昭和13年 (1938年) 時点で 「支那事変」 は既に世界戦争の性格を持っていた」 との指摘は重大である。
  厳密に言えばそう言い切れるか疑問なしとしない点もある。例えば後に日本と同じ枢軸国側に 「組み分け」 られるナチス・ドイツは 「支那事変」 勃発の前後、日本と戦う国民党軍に武器を売り軍事顧問も派遣していたと記憶するし、米国とも未だ逆戻りできないほどの対立関係には至っていなかったからだ (注1)。
  しかし、「東亜新秩序」 声明や 「東亜協同体」 論を前面に押し出すことによって日本の側から世界戦争に向けた 「ファイティング・ポーズ」 を取ってしまったことは否定のしようがない。紛争は中国に限定されていたとしても、連合国側 (インテリジェンス部門) がこの論調を分析すれば、「日本は世界秩序に明白な挑戦状を突きつけた」 という判断に至っただろう 。
  「東亜新秩序」 声明も、それを敷衍する 「東亜協同体」 論も、元はと言えば苦し紛れの後付け理屈でしかなかったが、結果的には言説で紛争を “escalate” させて後の 「大東亜戦争」 を 「ロック・オン」 してしまった。その意味で、ときの近衛首相だけでなく御用学者蝋山政道らの罪も想像以上に重い。

「あの戦争」 は 「一つの戦争」 か 「二つの戦争」 か

  それとの関連で、「『アジア・太平洋戦争』 と呼ぶ戦争を 『支那事変』 と『大東亜戦争』 の二つに分かちながら、世界戦争は昭和16年12月8日に始まったとする錯誤」 との上述指摘に筆者は深く考えさせられた。筆者自身、これまで 「あの戦争」 を二つに分けて考える思考に与しがちだったからだ。
  「大東亜戦争」 (ないし 「太平洋戦争」) は 「支那事変」 とは相手が違う (中国以外の場所で日本同様に帝国主義をやってきた米欧)。戦闘地域ももちろん違う。経緯的にも昭和16年(1941年)夏に連合国側の方から日本を戦争に追い込む決定的な制裁措置(「ABCD包囲陣」) が執られ、その後には有名な 「ハル・ノート」 も来た (つまり、そこだけ切り出してみれば 「連合国の側が喧嘩を売った」 、日本国民が 「耐えた」、「堪えた」、「忍んできた」 と感じた所以)。おまけに緒戦で真珠湾攻撃成功という超弩級イベントが起きたせいで、どうしてもこれは 「別の戦争」 だと見たくなりがちである。
  しかし本書を読んでから、一連の推移を巨視的に思い返せば 「あの戦争」 とはやはり、関係国家の権益や地政学的考慮、第一次世界大戦後の国際秩序・規範 (ワシントン体制) など様々な側面から判断して、日本の進めた対中侵略 (の行いと意図) が米英を中心とした当時の世界覇権国の許容できる臨界点を超えた結果起きた衝突だった、その意味で 「一つのアジア・太平洋戦争」 であったと見るべきだと思うに至った。
  さらに言えば、侵略の相手である中国は軍事的にはまったく弱かったが、(蒋介石の国民党か毛沢東の共産党かは別にして) 対米、対ソなどのオルグ活動を通じて 「連合国 (“United Nations”)」 として日本を包囲・反撃する外交戦には勝ったのだ。
  1990年代後半に当時の江沢民国家主席があちこちで 「国際反ファシズム連帯の歴史」 を強調して日本から 「いまあらためて日本をファシスト呼ばわりか!」 と反発を買ったが (注2)、中国の立場に立てば連合国の一員として戦った 「あの戦争」 は一つでしかありえない。ここで将棋盤をぐるりと回して盤面をあらためて眺めてみよう。米国から見て、英国から見て、ソ連から見て 「あの戦争」 は一つに見えるか二つに見えるか ・・・ 我々日本人は 「あの戦争」 の持つ国際的な意味と拡がりを軽視しすぎてきたのではないか (注3)。
  この 「アジア・太平洋戦争 = 一つの戦争」 認定に反発する向きもあろうが、その陣営にとって何より不利なのは、本書で明らかにされた如く日本自身が 「東亜新秩序」 論を鼓吹した経緯が 「禁反言」 を生んでしまうことだ (平たく言えば 「おまえが昔自分でそう言ってたじゃないか!」)。

「戦争責任」 の問題

  上で触れなかったが、「あの戦争」 を二つの戦争とする見方が日本で有力な最大の理由は、実はその背後に戦争責任の問題が絡むからだ。「中国に対してはたしかに済まないことをしたが、同じように帝国主義をやってきた、戦争犯罪 (都市無差別爆撃、BC級戦犯捕虜の虐待・殺害など) も同じくやった米欧諸国との関係では 『おあいこ』のはずだ」 という見方は有力であり、日本人の多数はホンネではそう考えているのではないか (注4)。
  そういう見方に立つと、たしかに戦争は二つ別々にあった方がアタマの整理が良いのは事実だが、「一つの戦争」 に 「複数の側面」 を読み込むことは論理的にできるのであり、筆者も 「あの戦争」 に 「帝国主義同士が争う普通の戦争」 の側面はあったと今でも思っている。
  ただそう述べた上で言えば、歴史学の上で 「複数の側面」 を読み込むことはできても、国際社会として 「あの戦争をどのように 『一件落着』 させるか」 という局面になるとそうはいかなくなる。いわば一つの公訴事実について有罪/無罪という二つの裁判をすることができないようなものだ。
  けっきょく、これは極東軍事裁判をどう考えるか、というお馴染みの問題に帰着する。筆者はこの点については以前から努めて割り切ることにしている。つまり、国としてサンフランシスコ講和条約で 「極東裁判の結果を受諾」 する代わり 「寛大な講和条件」 を手に入れる取引をしたのだからいまさら文句は言えないということだ (「寛大な講和条件」 を手に入れて 「消費」 しておいて、後から 「代金を返せ」 とは言えない)。
  戦争の責任は昭和天皇を始めとする他の指導者、ひいては戦前きわめて好戦的だった国民一般にだってあったのに、一切をA級戦犯たちにかぶらせた後ろめたさ、後味の悪さは覆うべくもないが、その問題は日本の外に持ち出さないように解決するほかないと思っている。不本意でも、悔しくても、負け戦とは元来そういうものだろう。

読書感想文「歴史の部」 へのあとがき

  「国民が対米英開戦のニュースに感動した」という指摘は、以前読んだ小熊英治氏の 「<民主>と<愛国> 」 にもあった。それを思いだしてもう一度読んでみると、小熊氏も対米英開戦がもたらした「感動」と同時に、国民が日中戦争に感じていた 「後ろめたさ」 に言及している。しかし本書はその点をさらに掘り下げ、「支那事変」 から 「大東亜戦争」 へ事態が進展する過程における国民の心理を、当時のテキストを丹念に発掘(“text mining”)することによって戦後生まれの我々に追体験させてくれるように思う。

  戦後生まれの我々は戦前のことを本当に知らない。こちらの不勉強のせいもあるが (例:白状すると筆者は第二次、第三次の近衛声明のことを知らなかった)、戦後日本が多くの点で 「歴史を封印」 したせいで、僅か数十年前に過ぎない時代のことがなかなかキチンと検証されていないのだ。そういう中で本書のように当時のテキストを発掘・読み込んで検証する作業は貴重である。これで「あの時代」 について、また一つ認識を新たにすることができた。著者子安教授に感謝したい。

(この稿、次回が最終回)
平成21年1月6日 記


注1:ただし、当時も米国に対しては重慶の蒋介石政府が必死の抗日オルグをして多額の援助を受けていた。このために蒋介石夫人宋美麗が米国で活躍した逸話は有名だ。また、毛沢東の共産党もエドガー・スノー経由でルーズベルト大統領向けの宣伝工作をしていた (記述の随所に対して有力な批判があるが、ユン・チアン著 『マオ (上巻)』 (講談社2005年刊) に拠る)。

注2:江沢民主席が 「国際反ファシズム」 連帯の歴史を強調したことについては、最近出たある本 (日本アニメが中国の若者に及ぼした影響の大きさ如何ばかりかを活写した 『中国動漫新人類』 (遠藤誉著 日経ビジネス社刊)) の中で、1995年にモスクワで開かれた 「世界反ファシズム戦争勝利50周年記念大会」 の場での出来事という初めて聞くエピソードが披露されていて興味をそそられた (同書315ページ)。

注3:昨今の世論右傾化傾向の中ではあるが、「反ファシズムの一つの戦争」 という国際的な意味と拡がりについては、最近日本国内にも 「言い過ぎを自戒する」 変化が見られるようになった。原因は(中国や韓国というより)米国にある。「駐日米国大使が見てショックを受けた」 ことが発端となって靖国神社遊就館の展示説明が修正される等の動きのことである。「米国が不快を表明」 となると右翼も修正に応じざるを得なくなるところ、この国は相変わらずだ (笑)。
  先日の 「田母神論文」 問題で政府の対処がきわめて迅速だった理由も (中国や韓国の不快というより) 「米国の不快」 を慮ったためだったはずである(より具体的には空自の次期主力戦闘機候補であるF22導入問題への障りか? (笑)。

注4:ごく少数だと思いたいが、田母神氏のように 「(対中) 侵略も濡れ衣であり、どこも悪くない」というウルトラの考え方の持ち主もいる。ところで田母神氏の主張を見て、いちばん驚き呆れ果てたのは 「自分の国を悪い国と言われたのでは国を愛せない。誇りを失った自衛隊員では国を守れない」 云々のくだりだった。
  田母神氏に子供がいるかどうか知らないが、子供が悪いことをしたとき、田母神氏は親としてどうするのだろう。「ウチの子が悪いことをしたと認めたら愛せなくなる」 のだろうか。個々の行いと愛する/愛さないはまったく別個の問題であり、「愛する我が国は悪いことをしていない」 というのは、何があっても 「ウチの子は悪くない」 と叫ぶモンスター・ペアレントと同じだ。以前から言っていることだが、日本の過去の過ちを 「直視」 することは 「自虐」 ではない。そんな 「直視」 で傷つくような未熟でひ弱な 「民族の誇り」 では、これからのタフな国際社会をわたっていけない。




 

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