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ブログ 津上俊哉
大河ドラマ 「天地人」 に一言

なんでオマエがこのテーマの投稿なんだ!?と訝しがられるかもしれませんが、事は東アジア関係史に関わるので、一言言上! 自称 「牛涎斉」 の筆者にしては2500字余りと常識的な分量です。


大河ドラマ 「天地人」 に一言
「タヌキ親父、家康」 像に異議あり



  今晩はNHKの大河ドラマ 「天地人」 が最終回だった。イケメン・美女が勢揃いの娯楽モノとして楽しめたし、何より直江兼継という戦国のヒーローを知ることができた。ググってみると、兼継は当時身の丈が1m80あって眉目も秀麗、頭が切れて統治の才があり、おまけに人柄も抜群で上杉家の陪臣なのに秀吉にも徳川将軍家にも一目置かれた。「天はいったい一人に何物与えたら気が済むのか?」 という類い稀な存在だったらしい。
  ただ、「天地人」 には苦言を一言呈したい。娯楽路線に徹したせいか歴史考証について批判が続出しているようだが、筆者はそこらへんはよく分からない。だが、門外漢ながら強い違和感を覚えたのはこのドラマにおける 「徳川家康」 像だ。終始一貫、豊臣政権の簒奪の機会を窺う小ずるいタヌキ親父として描かれ続けたからだ。

  徳川の肩を持たなきゃいけないしがらみは筆者にないが、豊臣 → 徳川の 「政権交代」 を 「天地人」 のように捉えるのはおかしい。それは秀吉が行った 「朝鮮征伐」 (文禄慶長の役、朝鮮では壬辰倭乱) という愚行を題材に、この政権交代を検証するだけでも明らかだ。
  学説によれば、秀吉が戦争を発動した動機は天下統一の過程で豊臣に服する諸大名やその家臣団が急膨張、彼らの忠誠を確保するために恩賞の 「財源」 が必要だったからということらしい。そこだけ見れば計算や (事の良し悪しは別に) 理性が感じられる (それが 「秀吉式人心掌握術」 だと考えたら、何となく田中角栄を連想してしまった)。また、戦争に駆り出された諸大名の留守を狙って 「太閤検地」 も行ったというから、石田三成ら豊臣官僚団との連係プレーもあったのかと思われる。
  しかし、晩年の秀吉は我が子 (?) 秀頼かわいさのあまり、おかしくなっていた。戦争に先立つ秀吉の対朝要求は 「日本に服属し、かつ、明朝征服の道案内をせよ」 だが、朝鮮は明朝の册封国である。そればかりか、わずか200年足らず前には日本も册封を受けていたのだ (注)。册封体制下の 「同輩」 国が服従を求めるのみならず 「中国を征服する」 と言い出した ・・・ 朝鮮から見れば 「狂っている」 としか見えなかっただろう。秀吉は前後して 「我は日輪の子」 という自意識が強まっていったという。オイオイ・・・
注:1401年、足利義満が明朝に使者を送り建文帝から册封を受けた。その800年も前ですら、随の煬帝を相手に 「日出ずる国」 と名乗った日本なのに、中国に 「朝貢」 してしまったのだ。これも南北朝の故事と並んで足利の評判が悪い所以である。
  文禄慶長の役は戦場となった朝鮮に深刻な戦災の爪痕を遺した。朝鮮に援軍を派遣した明朝の衰退の一因にもなった。日本国内でも戦役に駆り出された諸大名が疲弊して、かえって豊臣政権の後の衰退につながった。ほんとうに 「義」 も 「益」 もない戦争だった。秀吉が死去するや否や五大老の協議で撤兵が決まったというから、厭戦気分が蔓延していたことは想像に難くない。現代で類例を探せば、老醜ワンマン経営者が退陣するや 「懸案」 処理に乗り出す会社、といったところだ。
  翻って家康は 「江戸移封直後」 を口実に朝鮮出征を免れていた。仮に兵役を免れながら秀吉の愚行を冷ややかに傍観していただけならば、「天地人」 が描いた 「小ずるいタヌキ親父」 像も的外れとばかり言えない。しかし、出征はしなかったが家康は肥前名古屋の本営に詰めて出征する他の諸大名と絶えず連絡を取っていたという。大義名分のない戦さに駆り出される大名たちの愚痴の聞き役になっていたのであろう。諸大名との絆の強まりと同時に、「豊臣政権には失政のケジメをつけてもらう」 という大義名分やら自信やらも強まっていったのであろう。
  そして1603年、征夷大将軍に任じられた家康が最初に手を付けた仕事の一つが朝鮮との和解・復交だった。1604年朝鮮人 「被虜」 の送還要請を理由に朝鮮が非公式の使者 (僧侶松雲大師) を派遣してきたと聞いて、翌春伏見城で家康自身が同名と会見、「我れ壬辰 (倭乱) においては関東に在り、曾て兵事に与らず、朝鮮と我れ実に讐怨なし、通和を請う」 と述べたという (朝鮮の資料)。口先だけでなく、以降対馬領主である宗家に命じて復交工作を推進、1607年に実現している (朝鮮国王、徳川将軍の交代の都度遣わされる習わしとして江戸時代に永く続いた 「朝鮮通信使」 の始まり)。
  この故事は 「戦後処理」 が当時の大懸案であったことを示すものだ。そして家康が実権を掌握するや近隣外交上の懸案処理に着手したことは、近代的な政治領袖の姿さえ彷彿とさせる。江戸幕府というと 「鎖国」 という自閉的なイメージで捉えられがちだが、家康は同時期シャム王国 (タイ) にも遣使している。明朝との間では、通商 (勘合貿易) は復活したが対朝鮮のような正式復交は行われなかった。朝鮮と同様、兵火を交わした相手であるのにちょっと不思議だが、おそらく明に復交を申し出ると 「朝貢」 を求められるのではないかという警戒感に加えて、北方の女真族 (後の清朝) 台頭の情報を得て、既に明朝の先行き (1644年滅亡) を予期していたのではないか。
  「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」 の家康は、待つ間にじっくり政権構想を練っていた。そして少なくとも家康の時代には東アジア外交がメイン・テーマの一つだったのだ(注)。
注:末尾記載の参考図書 「朝鮮通信使をよみなおす」 は 「家康は大航海時代参入を目指した」 と評している (145頁)。
  これと対比して、失政を招いた責任があるのに戦後処理にまったく無為であった豊臣政権 (淀殿、秀頼、石田三成) は退場を余儀なくされる運命にあったとしか言いようがない。豊臣側にありながら、そこが一番よく見えていたヒトが高台院 (秀吉の正室ねね) だったと思う。いや、淀君だって見えていたかもしれない、しかし徳川と主従関係が逆転することはプライドが許さなかった、ということは滅亡を選び取ったとも言える。

   「天地人」 は、以上のような家康を 「小ずるいタヌキ親父」 として描き続けた。それは直江兼継を 「上杉の義」 の体現者と位置づけたからだ。それをドラマのライトモチーフにするために、「義」 を欠く “heel” (悪役) として対置される 「家康」 像が必要とされた。
  しかし 「義」 のあるなしを問うなら、文禄慶長の役こそ何の 「義」 もない戦争であり、豊臣政権にはその失政の責任があった。兼継はそれに異を唱えなかったのに、家康が豊臣政権への忠誠の約束を違えたと異を唱えた。まして、上杉と兼継は大坂夏の陣 (1615年) では豊臣を攻める側についたのだ。その義、何処にか在らん。「天地人」 はその一連を 「上杉の義」 で通そうとした結果、ストーリィが破綻してしまった。兼継は英傑に違いないし、当時の言動にはその時々の政治判断や状況があってのことだったのだろう。現実は何時ももっと複雑だ。
  娯楽ドラマにこんな文句を言っても・・・という気もしたが、歴史ある看板番組 「大河ドラマ」 にはそれなりの識見が求められる。「天地人」 はドラマ性にこだわるあまり、歴史の見方のバランスを失してしまったと思う。

「朝鮮通信使をよみなおす」 (仲尾宏著) を参考にしました)
平成21年11月22日 記




 

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