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「百年に一度」 の経済危機が中国にもたらすもの (その5)

本号が表題連載の最終回・・・ということにしておきます。(実はこれだけ長々書いても、まだ書き足らない)。


「百年に一度」 の経済危機が中国にもたらすもの (その5)
日本は長期的視点からの 「国益」 再定義を



  麻生首相が5月21日に都内で開かれた国際会議 (第15回 「アジアの未来」 ) で演説し、アジア金融市場の安定・発展に関連して 「危機の際に、各国に 『円』 を融通できるようにする」 と表明したそうだ。会議主催者である日経新聞は22日付け社説でこれを 「日本政府が外貨不足に陥った国に日本円を緊急に貸し出すものだが、『円の国際化』 を意識した発言ともいえる」 と評している (日経5月22日付け社説)
  ちょうど先々週以来、本ブログで最近の中国スワップ協定に込められた 「人民元国際化」 の狙いを論じたばかりだったので可笑しくなった。これじゃぁ、まるで日本が中国の政策を後追いしたみたいではないか。
  麻生総理の対中国負けず嫌いは横に措き、日本は中国の政策を真似た訳ではない。円の国際化を推進するために海外、とくにアジアに円資金を供給していくべきというアイデアはちょうど10年前、アジア金融危機直後の1999年4月に出た外国為替等審議会答申 (「21世紀に向けた円の国際化」) に謳われ、その後危機で打撃を受けたアジア諸国を支援する 「新宮沢構想」 で実行された政策でもあったのだ。

 「円の国際化」 政策は時機を失した
  せっかくこの答申に触れたので二つコメントする。第一、「円の国際化」 政策はスタートが遅すぎた。いまの中国のように 「上り調子」 だった1980年代、日本には通貨に関するグランド・デザインがなかった。
  それには当時の時代環境が関係している。若い人は想像しにくいだろうが、1980年代は 「強すぎる日本産業」 に欧米諸国が四苦八苦した時代だ。金融でもジャパン・マネーがニューヨーク、ロンドンを席巻していた。円の 「基軸通貨」 化なんて考える必要もないくらい勝ちまくっていた。東西冷戦も未だ続いており、西側陣営内は米国を頂点に「団結」する必要があった。おまけに、よりにもよってそんな時期に「東芝機械ココム事件」(注)が発覚、米国内で激しい日本たたきが起きた。日本は政治的に肩身の狭い思いをしていて、通貨で 「野心」 を持つどころの話ではなかった。
  こうして1980年代、「円」 は独自のグランド・デザインを持たないまま、1985年のプラザ合意に 「受け身」 で同意することになる。当時先進国経済間で国際収支などマクロ面でも、産業などミクロ面でも不均衡拡大が顕著だったのを為替レートの協調的リバランスで解消する計画 (触れ込み) だった。しかし、プラザ合意は合意したはずの水準をはるかに超える円高をもたらし、輸出主導・途上国型ビジネス・モデルから次のモデルに変わる準備のなかった日本経済をパニックに陥れた。「円高対策」 のために採られた過剰な金融緩和がバブルを引き起こし、その後の 「失われた10年」 に繋がっていったのは周知のとおりだ。
  「後悔先に立たず」 だが、円の国際化は日本経済が 「次」 の発展段階に向けて準備しておくべきビジネス・モデルだった。各国興隆の歴史を見れば、国力向上に伴い産業構造も変わる、国際収支構造も変わる、資本を輸出し投資収益で稼ぐようなビジネス・モデルへの転換は必然、そこでは通貨の仕組みが極めて重要なはずなのに、日本はその備えをしなかった。同時に、ユーロを作った独・仏のように日本が手を組めるパートナーが当時の周囲には全くいなかった不運も指摘する必要がある。
  冷戦体制は1989年に終わったが、「円の国際化」 政策提言にはさらに10年の歳月を要し、その間にバブル崩壊とアジア金融危機が来た。1997年には長銀、山一証券、北拓銀行が破綻し、国民に大きな衝撃を与えた。上記答申が出たとき、日本は既に 「落ち目」 になっていた。
  財務省は円の地位向上を目指すこの答申を出す2年前にはアジア金融危機を受けてAMF (アジア通貨基金) 構想を打ち出している。米国とその根回しを受けた中国の反対を受けて潰されたが、そもそも米国の意に沿わぬ構想が日本政府から出ることが非常に 「異例」 だった (注1)。
  背景にはアジア金融危機があったと思う。危機の発生、対策 (IMFが強要した緊縮型対策) の適否、当時の米中両国からの言われなき批判に対して、米国との間に強い緊張と反感が生まれていた。そういう目にあって、やっとこういう 「普通の国」 っぽい答申を出す気構えができたとも言える。一瞬だが、いつものように米国に 「気兼ね」 しようと思わなかったとも言える。

 「円の国際化」 は 「国策」 にならなかった
  コメントの第二、この答申が出た後も 「円の国際化」 は官邸が主導するような 「国策」 にはならなかった。この答申に基づいて後に様々な措置が執られたが、財務省の 「省策」 の域を出なかった。内容が 「地味」 すぎたのである。当時はちょうどいまの米国経済みたいに不良債権問題が深刻、景気はボロボロの時期であり、夢やロマンを語る元気など出なかったという原因もあろう。
  もう一つは憶測だが、2年前のAMF構想挫折の経緯も踏まえて、米国に 「ドル基軸体制からの独立を目指す」 かのように受け取られるような物言いは控えるという 「方針先にありき」 ではなかったか。つまり、円の地位向上を目指すことと米ドル基軸体制との折り合いの付け方が定まらなかったのではないか。
  この点、米国が1971年に宣言したドルと金の交換停止 (ニクソン・ショック) を見て、通貨価値安定を重視する欧州が独自の通貨枠組みに向けてハッキリと舵を切ったのと対照的である。踏み出した一歩 (域内通貨レートの安定) はささやかだったが、ベクトル (方向) ははっきりしていた。既に欧州 (経済) 統合というマスタープランが動いていたからである。

 これからの 「円」 の通貨政策
  プラザ・ルーブル合意、アジア金融危機、そして今回の 「百年に一度」 危機・・・ 「円」 の転機はいつも外生的にやってくる。今回は中国にとっても事情は同じで、昨夏のいっときは 「周章狼狽」 だっただろうが、1年近くが経とうとするいま、中国の方は対応を固めつつある。その結果、中国が今後採る戦略まで日本にとっての 「外生」 要因になってしまった。日本はどのように 「対応」 すべきだろうか。
  まず、中国が 「外圧」 の狙いを込めて 「ドル離れ」 戦略を採れば、米国は他に米国債購入余力のある日本への要請、圧力を強めるだろう。先般訪日したクリントン国務長官は 「米国債購入問題には触れなかった」 そうだが、その後立ち寄った中国ではこの問題を雄弁に語った。中国から期待した返事がもらえなければ、次は日本に 「要請」 するに決まっている (注2)。
  日本に論理的に可能な選択肢は3つある。日本は先進国なのに輸出主導、過剰貯蓄という途上国的な 「体質」 を残す国だから、中国を始めとする新興国の隊列に加わるのが良かろうというのが第一のオプションだ。しかし、「G7の一員」、「日米基軸」 のお国柄だから難しい。このオプションは真っ先に消える。
  第二は 「米国を支える」 と言いじょう、実は要請に諾々と応じて消化難の米国債をせっせと買い入れるオプションだ。オバマ大統領から緊急のホットライン会談申し入れでもあったりすると、この問題が直ぐに 「日米2国間問題」 に化けそうだから危ない (笑)。国内には 「ドル買い介入で110円以下の円安にしてもらいたい」 メーカーもたくさんいるからよけいだ。
  言うまでもなく本件は2国間問題の文脈で処理すべき問題ではない、そこを忘れて中国の 「穴埋め」 を買って出たりすればドル下落→国民資産損失のリスクを徒に増すだけでなく、「せっかく出口戦略の背中を押そうとしていたのに、日本が台無しにした」 という責任転嫁を被る 「ピエロ」 になりかねない。財務省にそんなアホな選択を採る考えはないと思うが、不安がない訳ではない。
  第三のオプションは両者の中道を行くことだが、「中道」 も積極型と消極型とでは中味がずいぶん変わってくる。「積極型中道」 は中国と腹を割った相談をし、協調できるところは協調し、できなくても米・中の間に割って入って日本の国益を追求するものだ。
  筆者はこうあって欲しいと願う。客観的に見れば、日中両国は同じ東アジアに位置し、非常に相互補完的な経済構造を備え、ともに Breton Woods II 体制の 「過剰貯蓄」 側に身を置いている。とくにお互い2兆ドルのポートフォリオ投資 (その過半はドル建て) を抱え、米国経済の恢復を切に願い、米ドルに暴落されては困る身であるなど通貨面では多くの点で利害を共有している。その両国が話し合わないのはお互い損に決まっているからだ。
  これに対して消極型中道とは 「観客に徹する」 オプションだ。望ましくないが、そうなる蓋然性がいちばん高いオプションかもしれない。しかし、前回ポストで掲げた表を見ても日本は今後の通貨体制、とくにドルのあり方について積極的に関わる必要と資格を十分すぎるほど備えている。その日本が観客に終わることはあってはならないと思う。

 中国の 「日本=米国の属国」 パーセプションを崩せ
  最も望ましい積極型中道オプションの難題は、中国が日本との腹を割った相談に応ずるという保証がないことだ。残念なことに中国側の 「日本=米国の属国」 パーセプションは極めて強い。日本が対話を求めても「米国と直交渉すれば済む」、「迂闊にホンネなど言えば、早速ワシントンにご注進しにいくだろう」 と身構えて、ちっとやそっとでは 「腹を割」 らない。そうでないにしても、「日本と協議するメリットはあるのか?」 を悩む。
  しかし、筆者はささやかながら過去の役人体験に基いて、このパーセプションは崩せなくはないし、崩せれば中国も違った対応をすると考えている。故橋本総理は中国WTO加盟交渉に熱心だった。1997年、中国の早期加盟促進というスタンスを採るか否か (米国は甚だ消極的だった) で割れていた各省庁の尻をたたき、G7サミットのつど各国首脳に早期加盟の意義を説いた。日本はこの方針に基づいてジュネーブ多国間交渉だけでなく関税引き下げやサービス開放などを巡る日中2国間交渉を加速しようと中国に持ちかけたが、当初中国は乗ってこなかった。「米国の属国なんだから、交渉であまり先走ると親分から叱られるんじゃないの?」 くらいに見られていたのだ。
  しかし、橋本総理がG7サミットで欧米に向かって早期加盟論をぶったと聞いてようやく 「事務方の口先だけじゃなさそうだ」 ということになった。それ以降交渉は加速され、日本は関税引き下げなどの成果を手に入れて1999年、世界主要国に先駆けて交渉終結を宣言した。中国指導者はその後訪中した日本要人に繰り返し 「WTO早期加盟支持に感謝する」 と述べたものだ。
  しかし、通貨問題以外の国際問題も含めて、これまでも 「中国は大切だ」 と思う多くの日本の識者、著名人が 「腹を割った対話」 を求めて中国と交流してきたが、少なからぬ人が失望して去っていった。適当なカウンターパートに巡り会えなかった場合も多いが、もう一つは年来の 「統一口径」 意識や 「日本」 を前にすると緊張してしまう癖も相まって中国側がなかなか腹を割った対話をしない場合も多い。それは中国側の 「至らなさ」 だが、「中国との真摯な対話が日本の利益に資する」 と考えるならば、時間と忍耐をかけて対話の壁を崩すべきだ。

 利益と目標を共有する努力
  日本と中国がEPA(経済連携協定)のような目標や夢を共有すれば、通貨問題に関する話し合いもだいぶん事情が変わるはずだ。ニクソン・ショックの翌1972年、独・仏を中核とする欧州が域内固定相場制を目指した取り組みに早くも着手したのも1950年代に端を発する欧州経済統合というマスタープランがあったからだ。
  日中EPA (FTA) は10年前には検討の余地がなかったが、2002年以降日本経済界が中国経済台頭の恩恵を実感し始めてからも何ら進展がなかったのは残念だ。公式的には 「アセアン+3の枠組みの中で 『専門家に検討させる』」 ことになっているが、これは 「当局間では議論しない」 という役人一流の言い換えだ。
  麻生総理は4月30日訪問先の北京での演説で 「・・・日中両国の更なる経済連携の可能性、場合によっては、日中EPAの可能性まで議論してもよいのではありませんか」 と述べた由。日本の総理が公式の席で日中EPAに言及したのは初めてだ、ハッとして全文を読んでみてガッカリした。それは 「次世代リーダーへの期待」 だったからだ。先送りするなー!
  日中EPAのマスタープランを下敷きにして通貨協力へという順序が非現実的であれば、逆にEPAの露払いとして通貨面での協力を先行強化することが考えられてもよい (日中の通貨面での協力が必要だということはこのブログで何度も書いてきたので繰り返さない)。
  この20年で東アジアを巡る情勢は激変した。東西冷戦は終わり、アジア経済は大きく成長し、域内取引が急増した。そして何より、中国が思いもかけない速さと規模で台頭した。いまや日本の最大の経済パートナーは米国ではなくて中国だ。東西冷戦下、しかもアメリカ経済に強く依存していた1980年代に比べて対米 “band wagon” (注3) をやることの必要と意義は大きく変化してきているにも関わらず、政治・安保面では1980年代以上に米国への依存を深めている。
  それは中国の台頭という新たな現実に向き合えずに迷走しているだけではないのか。思いこみや 「既定方針」 を捨てて、もう一度外の気色を見渡すことが必要だ。けっきょく、通貨問題は 「日本の国益とは何ぞや?」 の再定義が求められているあまたの領域の一つでしかないということかもしれない。
平成21年6月3日 記


注1:「日本政府が米国の意に沿わぬような政策を出すことは異例だった」 という点について補足。筆者の経験した通商政策について言えば、1990年代前半にマレーシアのマハティール首相が提唱したEAEC (東アジア経済協議体) 構想を支持するかしないかという議論があった。結果は 「支持しない」、理由は 「米国が嫌っているから」 だった。1995年には日米自動車紛争に絡んで米国が発動したスーパー301条制裁をWTOに提訴するかしないかが問題になった。1980年代に301条制裁を発動されたときは泣き寝入りしたが、1995年には提訴した (直後に和解したが)。しかし決断は容易でなく、日本には対米 「呪縛」 があることを痛切に感じた。
  米国と意見が一致しない政策を日本が出すか否か ・・・ 筆者の乏しい経験では、最後はトップたる総理の外交観とキャラクターで決まる。日米自動車紛争に絡むWTO提訴では、故橋本龍太郎氏 (当時は通産大臣) の決断が大きかった。橋本氏が中国WTO加盟問題で指導力を発揮したことは本文で述べた。1997年に財務省がAMF構想を打ち出したときの総理も橋本氏だった。以上の経験から、必要とあれば米国との意見不一致も恐れないスタンスを取るためには、「理屈っぽい」 こと (橋本氏がよくそう言われて嫌われた) も総理に求められる資質の一つだという気がしている (笑)。

注2:就任前に 「中国は人民元を操作している」 と議会証言して中国を怒らせたガイトナー財務長官が今週中国を初訪問した。ガイトナー氏に限らず、最近訪中したクリントン国務長官、ペロシ下院議長 (名うての対中強硬派) を団長とする議員訪中団の言動を見て、中国側は「かつての人権、人民元などの 『文句付け外交』(「抱怨式外交」) が形を潜め、“conciliation” 外交 (善隣と言うべきか、友好的というか・・・それとも 『和諧』 か!(笑) に取って代わられた、これが 「オバマ外交」 かと感慨に浸っている。しかし、ガイトナー長官訪中を巡る報道の中には 「笑顔の裏には請求書」 なんて意地の悪い見出しもあった(笑)。
  ちなみに、本ブログでガイトナー長官の上記議会証言の意図を訝ったことがあったが、28日付けのNYT紙にあのときの内幕が書いてある。要するに、議会証言後に出された議員質問に対する書面回答を準備した財務省スタッフがオバマ大統領選挙キャンペーン中の資料を使って徹夜で書き上げたときに起きた事務的ミスだったという。ソースは匿名の財務省幹部。そうだったですか、ニヤニヤ。

注3:“band wagon”:覇権国に追従する外交政策のこと。楽隊の乗る山車の後ろに随いて練り歩くことが語源だが、日本では 「長い物には巻かれろ」 政策とでも言った方が分かりがよい。




 

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