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「二項関係」 と 「共同体」 (日本人の集団帰属の生態)

森有正の 「日本語・日本人」 論の六回目です。今回は森の 「二項関係」 モデルを三人以上の集団 (「共同体」) にも展開できることを論じます。


「二項関係」 と 「共同体」 (日本人の集団帰属の生態)
(森有正の 「日本語・日本人」 論 第六回)


   「社会」 と 「共同体」 の相違

  冒頭に述べたように、私が森に興味を惹かれたのは、昨今の日本の政治や社会の有様を眺めるうちに 「日本はどうしてこういう風なのか」 ということを考えていたからである。私は今日の日本に混迷をもたらしている大きな原因の一つは、日本人の集団 (共同体) 帰属の問題ではないかと考えていた。そこで、森の唱える 「確立した個」 と 「二項関係」 というヨーロッパと日本の対置は、集団帰属の問題点でも、「社会」 と 「共同体」 の対置に準用・置き換えができる気がしたのである。

  森は、個人について、日本と西洋を以下のように対置させた。

(1) 「経験/アイデンティティ」 が複数・「二項関係」 までしか分解されない日本型。

(2) 「経験/アイデンティティ」 が 「我」 という個人にまで分解される西洋型

  同じ考え方に基づけば、集団問題についても、本連載の三回目 ( 「二項関係とは何か、なぜ求められるのか」) で述べたとおり、以下のような対置が出来ると考える。

(1) 日本人は所属する集団との間でも「我」という個人まで分解されずに、「わたし」 と集団の間に 「二項関係」 を結ぶ。結ばれる関係の本質は 「帰属」 であり (「うちの会社」 「うちの役所」 等々)、そこでの 「わたし」 は 「共同体にとっての成員」 というアイデンティティを持つ (「子は 『親にとっての子』 というアイデンティティを持つ」 のアナロジー)。日本の集団はこのような成員の 「二項関係」 の集合体としての 「共同体」 である。

(2) 近代西洋型の集団は、確立した個人と対置される 「他者」 の総称である 「社会」 である。社会には加盟者の権利や義務・責任のセットが定まっており、「我」 は、そのセットを前提とし了解した上で、社会の一員であることを選び取っている (「帰属」 ではなく 「加盟」 「参加」)。

  近代西洋型の 「社会」 と日本型の 「共同体」 の最も大きな違いは何か。それは、「共同体」 が親密な複数関係に由来するサークルであるのに対して、「社会」 は、意見が異なる、ウマが合わない者も包摂すべき (そういう他者を排除してはいけないし、自らがそこから離脱することも勧められない) という意味において 「公共的」 な集団であることだ、と私は思う。

  西洋型で公共的な 「社会」 の成員は、「他者」 に 「我」 の尊重を求める一方、己 (おのれ) も他者 (の 「我」) を尊重することを求められる。「確立した個人」 がそうやって社会を構成して共存するために、自ずと社会の理念 (自由、民主、平等…) や決まり (権利や義務・責任のセット) が生まれる。

  なぜなら、そういう理念やルールを各成員が守らないと 「社会」 は成り立たなくなり、結果として、「社会」 の成員全員の 「我」 を尊重しないことになるからである。だから、これは他者 (「我」) を尊重するという前提に立ち、各成員が維持に責任を負う意識で成り立っているという意味で、公共性を帯びた 「社会」 なのである。

  注:以上のような意味での 「公共的な」 社会は、サイズ・規模において国家 (「日本社会」) にだけ比定されるものではなく、会社、政党などもみな、この意味での 「社会」 に当たる。更には国連といった組織を念頭に置いて 「地球社会」 というのだって想定しうる。

  「 ゲマインシャフト vs ゲゼルシャフト」 論

  ここまで考えてきて自ずと気付くことは、これは 「ゲマインシャフト vs ゲゼルシャフト」 論に極めて似ているということだ。
  ドイツの社会学者、テンニース (1855-1936) は、人間社会が近代化すると共に、地縁や血縁、友情で深く結びついた伝統的社会形態であるゲマインシャフト (独:Gemeinschaft) からゲゼルシャフト (独:Gesellschaft) へと変遷していくと考えた。

  ゲマインシャフト:ドイツ語で 「共同体」 を意味する語に由来。地縁、血縁、友情などにより自然発生した有機的な社会集団のこと (共同社会) 。

  ゲゼルシャフト:ドイツ語でおおむね 「社会」 を意味する語。ゲマインシャフトの対概念で、近代国家や会社、大都市のように利害関係に基づいて人為的に作られた社会 (利益社会) を指し、近代社会の特徴であるとする。ゲマインシャフトとは対照的に、ゲゼルシャフトでは人間関係は疎遠になる。
Wikipedia

  日本は経済的にはじゅうぶん 「近代化」 したのに、社会的には依然として 「非近代的」 なゲマインシャフトから脱せていないということなのだろうか。そして、その原因はやはり日本語、なのだろうか。

  集団帰属の生態 (1)  − 「空気読めよ」

  さて、連載4回目 「日本人が 「二項関係」 を求める訳」 で、日本人は 「二項関係」 において対立・不協和を避けたがることを論じた。その現象は日本の 「共同体」 帰属を巡る心理状態でも同じである (「和を以て尊しとなす」 コンセンサス重視。ここで言う集団は汝−汝 (1対1) を上回る3人以上の集団)。むしろ、その度合いは二項関係における以上である。それは集団内で 「音が重なり合わない」 ことは、下手をすれば1対2以上の 「孤立」 に繋がる可能性があるためだ。

   「空気を読む/読めない」 という若者言葉 (KY) は、このあたりの事情をまことによく説明してくれる。「空気を読む」 のは、所属する集団から 「浮いて」 しまわないためである。共同体はそういう 「同調圧力」 を強く発している。成員も同調を強制されるだけでなく、進んで同調して 「うなりの消えた合一状態」 に入りたがる。以上の根っこには 「二項関係」 に入っていると心が安らぐ、というのと同じ心理動機が隠されている、おそらく、またぞろβエンドルフィン過剰摂取の状況があるのだろう (笑)。

  日本人は話し相手との間に協和的な 「二項関係」 が成立しないことを怖れるが、集団への帰属が拒絶されることはもっと怖れる。たとえ、それが家族・親族や職場のように帰属具合が人生に大きな影響を与える重要な集団ではなく 「公園ママ・サークル」 のようなミセラニアスな集団であっても、「グループに入れ (てもらえ) ない」 ことを 「性格に欠陥がある」 と指弾されるかのように怖れる。

  集団が行う選択を 「より多くの成員」 の同意を得て抵抗や支障なく実行するために、コンセンサスを目指すことは 「合目的」 的である。しかし、日本の集団では不和・対立を避ける、或いは 「集団から浮いてしまう」 のを回避することが自己目的化して 「コンセンサス重視」 が追求される。それは、日本の集団が 「目的」 のために組織されたゲゼルシャフトではなく、「ゲマインシャフト」 だからであろう。

  集団帰属の生態 (2) 無責任構造−「空気」 という言い訳

  さきに森有正が 「二人の人間が融合することによって、責任の所在が不明確になるのである。これは内容的には孤独の苦悩を和らげることと同じである」 と述べたことを紹介した。この事情も1対1の 「二項関係」 と集団帰属関係において異なるところはない。

  西洋型の 「社会」 なら、加盟の前提となる権利、義務・責任のセットがあり (そこには多数決といった意思決定のルールも定められている)、それを了解、同意して加盟している以上、「社会」 の行動・選択の結果については、個人として賛同したものか否かを問わず、成員として責任を負う。分かりやすい例は、社会の一種、株式会社の経営でまずい結果が生まれた場合、株主が 「自分は関連の株主総会決議に反対した」 と叫んでも免責されず、有限の責任 (例:強制減資) を一律に負わされることであろう。

  しかし、日本型の 「共同体」 では、往々にしてこうならない。まず、集団が選択をし行動するときに、「対立・不和」 を避け、大勢に 「従う」 結果、正体不明の 「空気」 に左右されやすい。その結果、「空気」 による行動と結果がまずい結果を生んでも 「我が集団の行動・決定の所産だから、みんなで責任を負おう」 ということになるならよいのだが、往々にして 「それがあのときの 『空気』 だった」 「反対できる 『空気』 ではなかった」 みたいな言い訳が横行して 「誰も責任を負わない」 ことになりがちだ。

  それは権利、義務・責任のセットを了解した上で 「加盟」 を選び取って所属しているのではなく、関係不明、正体不明の 「ヌワァーッ」 とした 「帰属」 をしているからである。山本七平が 「空気の研究」 で指摘したように、集団における責任不在の度合はときに甚だしく、1対1の二項関係を上回るであろう。

  「空気読めよ」 は若者言葉だが、この一言で、日本人の 「伝統」 は昨今の若者にも脈々と引き継がれていることを再確認できる。

  集団帰属の生態 (3) −共同体の重層構造 = 「派閥」

  以下は、森が言っていることではないが、日本の共同体は、その中にさらに小さな 「共同体」 が重層的に構成される特徴が顕著である。「派閥」 である。共同体が大きくなればなるほど、その傾向が強まる。

  「共同体」 は、各成員が帰属することに経済的な利益や精神の安寧といったメリットを得られる集団であるが、人が群れるものである以上、その中で利害の対立や不協和が生まれることは避けられない。そういう対立・不協和も調整、妥協して組織をまとめていかなければならない、という意味では、「共同体」 が大きくなればなるほど、備わる (べき) 「社会」 的な性格も強まるのである。

  「共同体」 といわず 「社会」 といわず、組織の中で対立や不協和が甚だしくなれば分裂が避けられなくなるが、ここにも日本と西洋の違いが出るだろう。日本の共同体にとって、「分裂」 は不和の極致であり 「何としても避けるべき」 事態である (何を連想してそう言っているかは言わない (笑)。

  それで分裂は避けられるかもしれないが、その分、より気が合い、より利益を共有する者同士による 「派閥」 が共同体の中に生まれ易い。喩えは悪いが 「理性による離婚」 よりは 「家庭内別居」 を選択するのに似た傾向があるとも言えよう。「随き従おう」 と思わせる磁力の強いリーダーがいなければ、気の合う仲間を求めて小派閥がどんどん増殖する。それならば、いっそ個人の確立に赴けば良さそうなものだが、日本人は往々にして 「その分解が 複数の関係で止まり、一個の経験にまで分解されない」。

  集団帰属の生態 (4) −日本の組織づくり

  言葉で顕された目標、理念、思想といったものを、人の 「集団」 がどの程度、共有し堅持できるか、という点にも、日本語の特性が影響しているのではないか。更に言えば、「組織づくり」 は、理念や思想に基づいて行われるのか、それとも 人間関係に基づいて行われるのか?という点についても、日本語の影響が及ぶ気がする。

  推測されるのは、「言葉で顕された目標、理念、思想」 によるバインドが弱い分、人間関係依存的な組織づくりになるだろうということだ。集団帰属の基礎に 「二項関係」 がある以上、二項関係の 「手触り感」 が保てる規模を越えて、大がかりに人を組織することは有効でないはずだ (大がかりにすると、考えも行動もバラバラの派閥だらけになる)。二項関係的にじゅうぶんバインドされワークする集団は、たかだか数十人の規模に止まるはずで、これを超える規模の集団を作るためには、軍隊で言えば小隊−中隊―連隊―師団といった手触り感を保持できる規模で何重にもレイヤーを積み重ねるしかないはずだ。

(平成23年9月24日 記)






 

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