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日本語と思想 −思想が深まらない

森有正の 「日本語・日本人」 論の五回目です。森は日本語論を通じて、日本における 「思想」 というものについても、深刻な疑問と内省を提起しています。これまた、「思い当たる」 ことが多いのです。


日本語と思想 −思想が深まらない
(森有正の 「日本語・日本人」 論 第五回)


  森は、日本語の 「二項関係」 性に関連して、あと二つ問題を指摘している。いずれも日本では論理的な思考がふじゅうぶんにしか行われない、さらには思想というものがじゅうぶん成り立たないのではないか?という深刻な疑問につながる問題だ。

  言葉の通用性・普遍性を損なう 「現実嵌入」

  第一は、「現実嵌入」 (言葉に現実が入り込んでくる) と森が命名した現象である。森が現実嵌入の例として挙げるのは、「これ・それ・あれ」 といった指示詞の役割・意味合いであり、それが日本語とヨーロッパ言語とでは大きく異なると言っている。

  「これ」 は、「それ」 「あれ」 などに対して、話者の近くにあるもの、あるいはこれから話者が言及しようとするものを指しており、話者とその話し相手が対話の展開する 「空間」 を、その対話そのものの構成自体として、そこにあらしめるのであって、言葉はそこから抽象されていない 《=言葉自体からは話者と話し相手が共有する 「空間」 が十分伝わってこない》。それは…逆に 《話者と話し相手の間においては》 言葉が現実と同じ強さをもって来る理由にもなっている 《が、》…一つだけ言っておきたいことは、この 「現実嵌入」 は、《第三者からする》 言葉に対する現実との照合による批判を非常に弱めているということである。

  こういう 「現実嵌入」 は、感覚の理性への嵌入と一般的に言い換えてもよい。それは今問題になった指示詞だけではなく、他の語についても、程度の差こそあれ言えることなのである。著しい例は固有名銅についてみられる。ある文中に例えば 「田中さん」 という固有名詞があらわれると、その田中さんが何回でも繰り返され、「かれは」 となることは普通ない。「その方は」、「その人は」 という言い方は、代名詞であるかどうか非常に疑わしく、それらは一度文中に現れた 「田中さん」 という名詞を代表するのではなく、その都度、田中さんという人自体のことなのである。だから文章によっては、単純に省略されてしまうが、そのために文章が不完全になることはない。田中さんその人が文章の構成要素としてそこにいるからである。

  それは、さらに立ち入って考えてみると、話者とその相手とが一つの共通の了解圏を構成し、「田中さん」 という人について二項関係が成立しているからである。この 「田中さん」 というのは、凡ゆる限定をつける以前の、感覚に直接入って来るその人そのものであり、それは一つの現実として、陳述そのものに凡ゆる影響を及ぽすのである。このように現実を生のまま荷なっている文章に批判的性格 《第三者からの批判の余地?》 が甚だ乏しいことは言うまでもないであろう。

  もちろんこの論議に多くの異論が提起されるであろうことは予想していないわけではない。例えば 「これは」 に当たる英語の this あるいは it、フランス語の ce あるいは ceci は、その場合の 「これは」 と同じような性格をもつものではないかというような反論もその一つであろう。しかし英語あるいはフランス語におけるそういう代名詞はすでに限定されている他の語を含意していると考えることができる。すくなくとも語感そのものから言って、現実をそこに嵌入するものとは考えにくい。のみならず、それが先行の文章 (表現されているかいないかに拘りなく) によって限定されている場合が事実多いのである。
( 「出発点 日本人とその経験 (b)」)

  これまた、難解な文章だ。私なりに言い換えてみることにする。

  ヨーロッパ言語では、「言葉」 にはそれぞれ客観的な意味がじゅうぶんに与えられていて、言葉が構成する命題は、命題提出者以外の第三者も 「文字のとおりに」 認知し、これを肯定・否定・展開することが容易である。これに対して、日本語では、言葉に 「汝―汝」 以外の第三者には容易に知覚できない 「二項関係」 依存的な意味合いが言葉に入り込んでくることがある (引用文が挙げる例で言えば話者と相手だけが生々しく認知する 「田中さん」 という現実)。これを森は 「現実嵌入」 と呼んでいるのだと思う。

  そういう、「言葉それ自体」 からは汲み取れない意味合いが言葉に付されると、その言葉によって構成される命題も第三者が汲み取りきれない意味合いを持つことになり、命題が本来持つべき通用性が損なわれてしまう、といったことではないかと思う。

  森はさらに 「『現実嵌入』 が言語の一部となってしまっている日本語、更にそれと一体になっている経験が、こういう次第であるのは、思想というものに対して始ど致命的であるように思われる」 と言う。(「出発点 日本人とその経験 (b)」)

  これは、日本語が運ぶ意味・内容に、当事者にしか通じない 「二項関係」 依存的な 「現実」 が入り込んでくるせいで、思想を深めていくために不可欠な第三者による吟味、批判、展開がしにくくなるのは大きなマイナスだという意味であろう。

  言葉の通用性・普遍性を損なう 「人称」 問題

  森が指摘するもう一つの問題とは、「人称」 《の交換性》 とでも言うべき問題だ。

  「A は B」 “A is B” というのは三人称の文章であるが、…《その》判断はその都度 《話者である》 主体が下すものであり、その中核に本当の一人称、二人称に転落しない一人称を含んでいる

  「私は、A は a だと思います」 というのはなるほど一人称かも知れないが、その意味で一人称であるにも拘らず、《 「A は a だ」 という》 三人称の文章になっていることである。

  とにかく、表現において一人称−三人称が超越的に、弁証法的に結合していることは、どうしても 「思想」 の要件であると思われる。何となれば、それでなければ思想にとって欠くことの出来ない真理性と普遍性及び体系性の問題は起りようがないからである。また思想にとって不可欠の公開性、一般的論議の可能性、進歩性、発展性は喪われてしまい、「汝−汝」 の間で遂行される秘伝的性格か濃厚になって来るであろう。あるいは凡ては永遠に始めからのやり直しの繰り返しになってしまうであろう。
(「出発点 日本人とその経験 (b)」)


  これも私なりに理解して補足すれば、以下のようになる。

  ヨーロッパ言語では、「我」 と 「他者」 の対置がはっきりなされる。「他」 は、「汝」 である前に三人称の 「かれ」 である (前出森)。こういう言語では、人は 「二項関係」 に依存して浮動することのない 「我」 という定点から言葉を発するし、聞く側も 「我」 という定点に立って聞く。言葉を足して言えば、Aさんの言葉は、Aさんという 「我」 が発した (Aさんの) 一人称の発言である、同時に話し相手である我 (わたし) から見ると、Aさんという二人称の言葉であると同時に、Aさんという第三者 (他者・三人称) の言葉として了解される。森はこれを 「一人称−三人称の超越的、弁証法的な結合」 と呼んでいるのではないかと思う。

  そういう人称の結合 (入れ替え・交換?) が 「思想の要件」 であると森が言うのは、個人Aが 「我」 として考え抜いた思想を、個人Bが 「他者」 Aの思想として、己の目線・立ち位置から吟味して、肯定・否定・展開する、そのことの積み重ねが思想の深化をもたらすと考えるからだろう。

  ところが、日本語の場合、「我」 と他者・三人称の対置が弱い弱点が露呈する。「我」 が 「二項関係」 に合わせて立ち位置や考え方を換えて、客体と 「同化」 しやすいので、「あなた」 の思想と適度な距離を置いて、これを 「他者」 の思想として捉えることが難しい、よって 「我」 の目線・立ち位置から吟味して、これを肯定・否定・展開する思想の深化が起こりにくい。話者と 「あなた」 の関係に立たない第三者も、二項関係依存的な他者の言説は追試・追体験しにくい等々である。

  ここに挙げた森の二つの指摘はいずれも、如何にも 「図式的」 な二分法であって、本当にそうなのか?と思う点がなくもない。とくに上記で森が挙げた 「これ―それ―あれ―どれ」 と英語の this あるいは it、フランス語の ce あるいは ceci は、どこがどう違うのか、私は未だにじゅうぶん感得できずにいる。しかし、私は森有正が日本とフランス、日本語とフランス語の間に立って、生涯を通じて体得し考え抜いた結果に対しては敬意を払うべきだと思っている。

  日本ではたしかに 「思想」 というものは 「移ろいやすく」、定点に堆積して深まっていきにくいという印象は、以前から私の中にあった。森の 「日本語と思想」 論を読んだ今は、それが日本人と日本語の性格に由来するのだろうかという疑問が加わった。

  日本人は言葉が指し示す意味合いを大切にしない

  森の 「日本語と思想」 論を読んでいて、「言葉」 (が指す意味や内容) はもっと厳格に取り扱われるべきなのに、日本はそこがたいそうルーズだということに思い当たった。それをいちばん感ずるのは 「共同体」 の内実に深く関わってくる組織運営面などである。「法律や決まりにはこう書いてあるが、実態は違う」 というのが多すぎるのである。「決まりが共同体の実情に合わない」 なら合わないで、決まりを改正しないとおかしいのに、「実情に合わない」 決まりをそのままにして、これに沿わない運用をして平気でいられる。

  会社の重要な意思決定に取締役でもないOBが関わる (「相談役」 が実質的な決定権とか少なくともVeto権を持っている) などは、その一例である。会社の定款や取締会規則の何処を読んでも、そんなことは書いていないにも関わらず、である。原因を探ると、「会社の人事権は未だにその相談役の掌中にある」 場合が多い。しかし相談役が人事権を持つということも何処にも書いてはいないのである。

  「名」 と 「実」 の食い違いを平気で許容するこのような傾向は、昨日今日の話ではなく、8世紀に律令制度を導入した後もそうだったし ( 「令外」(りょうげ) の官職や習 (ならい))、明治以降西洋の制度を導入してからもずっとそうである。

  「オモテの決まりにはこう書いてあるが、別に不文律 (ウラの決まり) があって、そちらが優先する」 のなら、まだ良い。実際は不文律といった 「決まり」 もなく、ただ、「相談役 (事実上の権力者) の了承を得ていないと後で 『揉める』、『引っ繰り返される』 」 という 「共同体の現実」 が経験的に認知されている、といった感じではないか。

  定款上、会社にも株主 (総会) にも責任を負っていないのに実権を振るう相談役は、誰に対して責任を負っているのだろうか。おそらく 「共同体」 とその伝統に対して責任を負っているのだろう。

  繰り返すが、「相談役が実権を握っている」 こと自体を問題だと言っている訳ではなく、そうでないことを規定に書いておいて、実態が違うことに平然としていることが問題なのである。「言葉」 (が抽象的に指し示す意味合いなり命題) が 「文字通り」 に受け取られ尊重される言語とお国柄であれば、こういうことは起きないのではないだろうか。

  「抽象性、論理性、公開性、共有性を備えるヨーロッパ言語」 と、そうでない日本語の差異という森の指摘が、頭の中に頭痛のように残る。
(平成23年9月24日 記)






 

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