通産省は私の古巣ですが、その看板であった「産業政策」について、私は以前から本ポストのような見方をしてきました。なので、農協のTPP反対論にも「違う」という思いを禁じ得ないし、いまの中国を見ていても「・・・」としか思えないのです(笑)
「戦後産業史への証言(一)」 「自由化の推進」 抜粋
注:[ ] の見出しは筆者が付した
[編者評]
佐橋氏の動に対して今井氏は・静、冷静で理論的で物静かなゼントルマンである。氏は昭和30年代後半の貿易自由化に対して、自由化推進を主張し続けた中心的存在である。自由化の原則には賛成せざるを得なくても、個々の企業は、自分たちの問題となると、当然のことながら激しい反対をくりひろげた。こうした事態にたいして、冷静にことに処した今井氏は、当時の通産省のなかでは少数派にすぎなかった。
にもかかわらず、なぜあえて自由化を推し進めようとしたのか。それは、輸入割当てをはじめとする管理された貿易が、いかに腐敗を生むかという、氏のなまの経験であり、こうした根を一掃したいという、氏の激しい情念であった。物静かな語りくちの奥に激しい闘志を感じさせる。それが、氏を孤独のなかで、自由化行政の中心に位置させ、昭和30年代の通産行政をつくりださせたのかもしれないのである。
[今井の経済観]
− 諸先輩にいろいろ聞きますと、戦争中の計画経済や戦後のいろいろな計画に関係されて統制経済をやられた人ほど、経済統制はむずかしくてダメだという実感を持たれたと思うんですが、今井さんはどうですか。
今井 私もまさしくその意見なんですよ。私は統制の中心的なことばかりやっていたんですが、どんなことをやったってヤミがありますね。統制計画なるものも、つくるときは非常に正確に、自信をもってつくるんですけれども、われわれの予想を上回る変革が発生する。あのころ(戦争直後)海外の影響はそれほど受けないときでしたが、それでも与件がいろいろ変化していって、守られないんです。とくに公定価格なんかつくっても、それは安定した需給関係がもとですから、メチャクチャな価格変動が起こると、結局、物資統制も価格統制も、漸次はずしていかざるをえなくなった。
・・・
それから為替管理、輸入外貨資金割当制の障害も非常に出てまいりました。というのは割当て自体が、非常に利権化してしまったんです。砂糖を輸入すると、その輸入価格の2倍か3倍に売れて、ほろもうけになる。…ですから、割当権が価値を生じまして、ものを輸入しないで、輸入割当権の転売がどんどん行われる−そういう弊害が起こってきた。…砂糖のほか、たとえば綿花とか羊毛とか油とか、いろんなものの輪入権自体が利権化して、価値を生じて、ものを輪入しないで、権利を転売しただけで利益が出る。そういうやり方について日本経済が復興するに従って、非難の声が起こりつつありましたね。
[貿易自由化への流れ]
その当時、繊維産業のあり方を基本的にどう考えたらいいか−とくに原料の輪入間題、設備過剰間題、それから当時、天然繊維と化学繊維、合成繊維の競合問題、次第にナイロンなりテトロンなりが伸びてくるわけですから、これらを基本的にどう考えるかということで、繊維総合対策懇談会を33年10月につくったんです。
− 参加されたのはどういう方ですか。
今井 中心は、東京銀行副頭取の堀江薫雄さん(現在同行相談役)でした。堀江さんは次のようなことをいっていた。要するに、国内には割当てによる弊害間題があるし、外にはともかく貿易自由化の声、とくにIMFではもう貿易制限の時代じゃないだろうという機運がある。各国は、外貨資金もある程度豊富になってきたから、外貨資金の節約のための輸入制限はやめようという、IMFの14条国から8条国移行というIMFの基本的精神に基づく動きが出てきた。早晩日本にもその圧力がくるだろうと。 それで堀江さんを中心にして、もう少し大所高所からこの繊維問題を考えてみようと…
− どんな議論がありましたか。
今井 堀江さんがそこに持ち出されたのは、西ドイツがもうIMFの8条国移行の宣言をしている、イギリスも宣言した、それからフランスも遅れているけれども、間もなくするだろう。アメリカ、カナダの2カ国はすでに8条国になっている。つまり欧州の国々では、次第に為替管理、輪入制限を撤廃しだしたわけで、日本もやがて必ずそういうことにならざるを得ないということでした。それを池田通産大臣(勇人、34年6月〜35年7月)にご進講したところ、池田さんは自由化の大勢を読みとるセンスを非常に強く持っておられて、「君、東銀の堀江さんによく相談しろ、あの人が天下の大勢をよく見ているから、大勢に遅れないようにしたまえ」という注意がありました。
− (通産)内部の意見はどうだったんでしょうか。
今井 IMFの意見をのむ必要は絶対ないというかなりの強硬論ですよ。自由化なんかされたら産業政策はメチャクチャになっちゃう、徹底的に反対しろという意見が中心なんです。
それから貿易自由化問題が資本自由化問題とごっちゃになっていた。資本自由化のほうは、この段階では芽を出していないけれども、とくに自動車などは、業界ではなくて通産省のなかで、自由化すれば外車はどんどん入ってくるし、場合によってはGMとか、とくにフォードあたりが国内へ組立工場をつくるかもしれないと、外資の進出を非常におそれていました。
[特振法を巡る通産省内外の雰囲気]
− なぜそんなに外資恐怖症なんですかね。
今井 当時、自動車産業はいちばん保守的なように感じましたね。IMFを非常な外圧とみたわけです。池田さんなんかは、「そうはいっても、自由化は世界の大勢だから、もうのまざるを得ない、妥協せざるを得ない」という見解だった。業界の大部分も、しかたがないという考えだった。経団連はその間ずっと連絡をとっていましたけれども、しかたがないという池田さん流の考え方です。
− 総資本というか、財界的な感じですね。個別業界になるとまたぜんぜん別でしょうけれども。
今井 ええ。それで自由化計画が決まり、通産省における貿易自由化反対論も、牙城が落ちるわけです。そこでやがて外資の進出問題も出てきて、産業に対する防波堤がなくなるという危機感、それが特振法の思想に発展していくんです。
だが、業界はそれほどついてこなかった。むしろ逆に、特振法に反対のほうの立場が多かった。通産省のとくに若手が、貿易自由化が進むことに非常に不安がったことが、特振法発想の動機ですね。
− あの時(自由化を)いちばん脅威と感じたのは、自動車と化学の業界ですね。後に非常に伸びるのはこの2つの業界で、むしろ繊維なんかを追い抜き、逆転していく。ここがまた経済のおもしろさだと思うんですが、どうも重化学工業あたりは非常に危機感がみなぎっていた。
今井 まあ産業構造の変化ですな。その後、強くなるところ(自動車と化学)からほんとうに猛烈な反対を受けた。通産官僚でありながら、自由化を推進するとはなんだ、という論法でしたよ。
− 民族派の方が強いわけですね。むしろ近代経済学者が、小宮隆太郎さん(束大教投)などを中心にして、自由化促進論の論陣を張る。35年くらいから、自由化問題は政治的には大きくクローズアップされていた…けれども、通産省内部は、それと逆の方向が出るという動きでしたね。そうなると通産省内部では、そうとう苦労されましたか。
今井 ええ、それは苦労しましたよ。
− 今井さんとしては、自由化しないことによる政治と行政と経済とのゆがみが間題といった割当制以来の意識が、非常に強かった。
今井 非常に強かったですね。通産省のなかであまりにも自由主義的なことをいうものですから、みんなは閉口したかもしれません。結局、なんといったって経済は競争が主体です。たとえば輸入面で、割当制を実施していれば、競争は必ず制限されます。外車の輪入制限をしておけば、それだけで気楽にマーケットを維持できますから、完全競争とはいえない。そういう面は、当時の私にはどうしても見過ごすことができなかった。
− 当時の今井さんのお考えは、競争を中心にかなり厳しい政策ですね。…特振法が流れたのは、今井さんの次官のときですね。通産省の役人は、貿易、資本の自由化とすすんでいけば、仕事がなくなるんじゃないかという危機感があの特振法を支え、特振法に代わるいくつかの個別立法をやろうという動きを支えていったと思う。ところが、その後どうなってきたか。結果として見ると、今日通産省は、世俗的ないい方をすれば国際派が大勢を占めている。これはもう時代の流れだと思いますね。
今井 当然ですね。
− 今井さんご自身は、特振法についてどうお考えになったんですか。
今井 私は苦しんだね。
− 思想からいけば認めがたい。しかし、通産の若手、中堅が特振法の考え方を支持してきたわけですね。
今井 だけど国会が審議してくれませんでしたよ。ぜんぜん問題として取り上げようとしなかった。
[自由化が産業を強くするという発想]
− 世上、そのことが今井さん対佐橋さんの対立のようにいわれました。これもやっばり担当している局の立場がかなり強く映し出されていた。今井さんはずっと通商畑ですね。そのこともずいぶん影響しているんじゃないでしょうか。
今井 それはありますよ。重工業局サイドのように頑張ったって、(世界の趨勢からして)なるようにしかならないという見通しが、われわれ(「通商派」)は先に立ちますからね。
− 貿易の自由化を一方に設定することによって、その対策を業界にたてさせようとしたことはありませんか。冷たい風が入りますよといって、業界の引締めをはかり、日本産業の構造変化、近代化を促進させる…
今井 それはありましたね。…その業界自体、あるいはその担当の連中からいわせると、日本の機械工業、自動車工業は、アメリカや西ドイツなんかに比べ10年やそこらの遅れじゃない。ずうっと遅れている。だからそれを自由化した場合、はたしてどうなるかわからんという、業界自身も非常に自信がなかったんでしょうね。
それに対して、いや、そうじゃない、鉄だってここまで伸びてきたじゃないか、自動車にしろなににしろ、ある程度はやがて伸びるはずだ。むしろ自由化したほうが、産業としても通商政策としてもいい。こっちが自由にすれば、向こうに対しても自由化を求めることができるし、お互いに市場を広くしないといけない。こっちは直接産業担当という責任はなく、通商面の担当ですから、すこし抽象的にいろんなことをいっていたきらいはあります。業界や重工業局の方はやっばりミクロの問題として、また自分たちの間題として真剣に考えます。
あのころの自動車業界は、外部から見ますと、ほんとうにそんなに自信がないのか、外国の模倣主義的な行き方でいいのかと、ちょっと憤慨させるような熊度をとっていましたよ。ところが、いま世界一になった。日本経済、日本民族の力をかれらはどうみていたんだという気もします。