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四川地震遭難者への黙祷 (フォローアップ)

 前回掲載した四川地震問題に関して、若干フォローアップをします。


                    四川地震遭難者への黙祷 (フォローアップ)


            前回掲載した四川地震問題に関して、若干フォローアップをします。


1. 人民解放軍が見せた新しい 「顔」

  今回の地震救援活動を通じて、人民解放軍は二つの新しい顔を見せたと思います。中国の国情に疎い我々外国人にだけでなく、中国国民に対してでも、です。
  第一は、情報公開のおかげで、ふだんメディアの前に姿を見せない解放軍や武警の素顔や活動の実態が広く公開されたことです。とくに、5 月 18 日の記者発表で壇上に現れた軍関係部門の代表者達は、臆するところなく部隊の投入状況、物資の充足状況等を内外メディアに明らかにし、中国国民を驚かせました。「そういう情報はすべて機密に属する」 というのが中国人の常識だったからです (街中でも看板がかかってなくて素性が分からない施設は軍関係と相場が決まっています)。
  記者会見に現れた軍の代表者達は階級で言うと大佐クラス、歳で言うと 40 歳代半ばでしたが、隠し事をしないで答えるその態度は、軍にもニュー・ジェネレーションが台頭しつつあることを実感させた由です。テレビでも連日大量の震災報道が続きましたが、その中に軍や武警の危機管理や医療の専門家が数多く登場してインタビューやら解説に応じていました。軍服は着ているものの、知性と専門性を感じさせる人選でした。

  第二は前回も触れた膨大な物量の動員能力についてです。委細は省きますが、不意をつかれたにも関わらず、交通の遮断された被災地 (とくに山間地) に短時間に10万余名の軍・武警 ( 8 千名以上の空挺部隊を含む)、その他医療・救援要員、大量の重機、救援物資を送り込んだ兵站作戦は国際的に見ても稀に見るものだった由です。外国の軍事専門家も驚きを隠せないようで、外電報道も相次ぎました。中国人自身、自国の軍隊がここまでやれると思っていなかったのでは?という感があります。
  その背景には当然ながら、装備・訓練の充実があります。今回は災害救援という民生活動が舞台でしたが、近年海外が懸念・批判してきた中国の軍事費増大はダテではなかった訳です。幸い、大量の関連情報が公開されましたから、各国の軍事部門は今後その分析に追われることになるでしょう。中国人にとっては、心から頼もしく感じられたでしょうが、外国人にはちと不安も感じさせた、新しい 「顔」 でした。

2. 日本救援隊受け入れが遅れた理由

  地震発生が 5 月 12 日、日本救援隊の受け入れが 15 日、現地で救援活動が開始できたのは 16 日で既に発生後 100 時間が経過していました。72 時間が勝負と言われる地震救難ですから、生存者救出があまり期待できないということは、到着時から日中双方暗黙の認識だったように感じられます。どうせ受け入れるのなら、なぜもっと早く受け入れなかったのか?という疑問が当然湧いてきます。
  この点について最も得心がいった説明は、被害の甚大だったブン (さんずいに「文」) 川、北川、青川といった地区は道路が寸断されたせいで、発生後一両日は現地に近づけなかったということです (先般の中越地震のときは、日本でも似たことがありました)。解放軍や武警の先遣隊も一昼夜不眠不休、徒歩で現地入りしたくらいですから、輸送手段を確保する前は外国救援隊に来てもらっても、手の出しようがなかったことは事実でしょう。
  他方、もう一つ興味を惹く説明がありました。四川省のあの一帯 (とくに綿陽市) は国防上機微な地区なのだということです。毛沢東時代に行われた 「三線工業政策」 (注)の結果、核兵器工業と航空流体力学研究 (実験風洞) のセンターがそこに配置されている、のだそうです。
  今回、日本救援隊受け入れは中国でも強い関心を呼んだため、受け入れが遅れた点、及びこの国防上の配慮を巡ってはネット上でも激論が交わされていました。曰く、
○ 地震大国日本は救援面で中国より進んでいるのだから、受け入れるべきだ。政府は倒壊した建物の下敷きになっている同胞の人命を何だと考えているのだ!?
○ あの一帯が国防上どういう意味を持つ地域かを知らないから、そういうおめでたいことが言えるのだ、外国が救援の手を差し伸べると言っても、スパイを帯同してこないという保証がどこにある!?
○ 四川一帯は観光名所で、世界中から観光客を集めてきたではないか、「スパイ活動のおそれ云々」 と言うなら、そういう外国観光客の一人ひとりにこれまで監視を付けてきたか!?
○ 外国救援隊には当然付き添いの中国機関が随行するから、救援隊に紛れ込んだスパイが救援隊を離れて諜報活動をされる心配なんて杞憂だ。
○ そういう施設には厳重な防諜措置が施されているし、位置を知られて爆撃されるのが心配というなら、世界中にある原発や核工場だって同じではないか!?
 ・・・侃々諤々、ナショナリスティックで危険な傾向を指摘されることの多い中国ネチズンたちではありますが、これは興味をそそる議論でした。この書き込みは未だ消されていないので、中国語に心得のある方はこちらにどうぞ(百度書き込みサイト)
  本当のところはどうだったのでしょう?中国政府は、最後は救援隊を受け入れた訳ですから、以上のような国防上の懸念は仮にあったとしても払拭されたはずですが、事情に通じたヒトから聞いたところでは、「スパイ、秘密漏洩云々」 は笑止の議論だが、現地の核兵器工場・貯蔵施設から放射能漏洩が起きていないことが確認されるまでは外国救援隊を受け入れる訳にはいかない、というかぎりで、無関係ではなかったそうです。
注 三線工業政策:中国は文化大革命の前後、米国に加えてソ連とも軍事対決が起こる可能性を懸念した一時期があった。このための国防上の考慮から、沿海地域の 「一線」 や平野部の 「二線」 に対比させ、「三線」 と呼ばれた西南・西北の内陸地域に重要な軍需工業体系を整備して 「戦略的大後方」 を確立する狙いで 「三線建設」 が採られた。

3. 今回の日本救援隊が果たした外交作用

  新華社が配信した2枚の組写真があります。17 日、日本救援隊が青川県で発掘した母子の遺体に黙祷を捧げる写真です。(新華社写真サイト)
  上述の受け入れ是非を巡る議論を見ても分かるように、日本の救援隊の受け入れに対して、当初中国国民が諸手を挙げて歓迎した訳ではありませんでした。しかし、この組写真はネット上至るところに転載されて、多くの中国人が争ってこれを見ました。日本の救援隊とはどういう人間達で、何のために此所に来たのか・・・組写真は多言を要しない強い訴求力で中国人の胸を打ちました。活動開始前にネットの一部にあった心ない曲解もこの写真以後は消えたように思います。
  今回は仕事の関係で蘇州と北京のいろいろな人に会いましたが、別に外交関係者でもない多くの人が 「日本救援隊は中日関係の 『氷を溶かす』 シリーズの仕上げをした」 という趣旨のことを言いました。60 余名のレスキュー隊員の人たちは国家首脳と同等、むしろ、それ以上の外交的役割を果たしたと言って良いと思います。

  ちなみに、救援隊に始終同行取材した新華社記者の同行手記が掲載されています。救援隊を送り出した側の日本人にも読んでもらいたい内容ですし、今日は日曜日でヒマだったので、正確さに欠けますが翻訳して末尾に付しました。長くなりますが、是非目を通していただければと思います。
平成 20 年 5 月 25 日 記


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                  日本救援隊、遺体に黙祷?私は涙が溢れて止まらなかった
                        新華社記者地震被災地手記


  小泉嵩、田中一嘉、大川雅史、大河内克郎、川谷陽子……もし、この大地震がなければ、彼らと五日五晩を共にした記者の私を含めて、中国人が彼ら普通の日本人を知ることもなかっただろう。
  被災地での心揺れる日夜を経て、彼らは既に日本に帰国したが、廃墟の上での彼らの姿、罹災者に捧げた心からの哀悼は、未だに私の脳裏に浮かぶ。
  中国人民は永遠に忘れない、彼ら 60 名の日本救援隊員はブン川大地震後真っ先に現地に駆けつけた、そして新中国の歴史上初めて現場救助に参画した外国救援隊であったことを。

    日本隊員のプロフェッショナルな素養が私を落ち着かせてくれた

  5 月 16 日未明 3 時から、私はこの見知らぬ外国人たちとずっと行動を共にして、被災地の青川、北川県を回った。実を言うと、私は震災現場に立ち会うのは初めてで、同胞の遺体に遭遇して泣いたり怖がったりしたこともあった。しかし日本隊員のプロフェッショナルな素養は私たち随行者を落ち着かせてくれた。
  日本救援隊の第一陣が青川に向かう路上、酒家崖を越えるあたりは、道路長の 80% 以上がU字型に曲がりくねった道だった。道は救援人員と物資を輸送する車両でごったがえし、先頭を見ることもできず、車内の中方関係者と日本隊員はやきもきさせられ、身を乗り出すこと頻りだった。海上保安庁の大河内克郎は何度も下車して前方の様子を見ては戻ってきた。車列は通常なら 4、50 分で抜けられる道を 3 時間かかってようやく抜けて青川県に入った。
  日本隊員たちは青川県解放街にある中医病院の職員アパート現場に到着すると、直ちに生き埋めになっている罹災者の大まかな位置を割り出し、警戒範囲を定めると、寸刻も休むことなく捜索救助に取りかかった。夜も更ける中、生命探査装置は生体反応を感知しなくなったが、日本救援隊員は徹夜で捜索を続行することを決定した。
  16 時間の奮戦が続いたが、母親宋雪梅とその腕に強く抱きしめられた女児が救出されることはなく、17 日朝 7 時 30 分ころ、救援隊員は母子を遺体で発見した。31 名の日本救援隊員は二列に整列し、遭難者に黙祷を捧げた。それを見た私は涙が溢れて止まらなかった。

  「私たちは最大限の努力をしました」

  17 日正午、二陣の救援隊は青川で合流、次の捜索場所—北川県に向かった。夜 11 時頃、北川中学に着いたとたんに豪雨になった。真っ暗闇の街中をひっきりなしに雷が照らしていた。このとき北川県は極めて危険な状態にあった。上流では地震でできた塞き止め湖の水位が上昇して決壊する恐れがあったほか、余震も止むことがなく、山の弛んだ傾斜が地滑りを起こすおそれも高かった。中方関係者は安全を考慮して再三にわたり、夜明けを待って現場の見取り図を描き、救出方案を作って作業に臨むことを提案したが、作業が止むことはなかった。
  最終的に救出できた被災者がいなかったとはいえ、隊員たちは道端で着の身着のまま短い休息を取っては働き続けた。疲労で隊員達の眼は真っ赤になっていた。18 日の全国哀悼日には彼らも我々同様沈痛な面持ちで哀悼を捧げていた・・・これらの姿が一つ一つ、人を感動させた。
  「彼らは本当に頑張った。彼らが捜索にあたった地域は他の救援隊よりも遠く、捜索の難度も明らかに高かった」 随行した中国関係者はこのように語った。それ以上に忘れられないのは田中一嘉が語った次の言葉だ。「我々は一人の命も救うことができなかった、本当に、本当に残念でなりません」、「瓦礫に埋まった人たち、とくに柱に挟まれたままの生徒たちを見ると心が痛みます、まだあんなに小さな子供なのに・・・」 そう語る彼の目には涙が浮かんでいた。
  時間が過ぎて日本救援隊の使命は終わり、被災地での捜索を打ち切ることが決まった。「我々は最大限の努力をしました」 ・・・ そう述べた小泉嵩隊長の厳粛な面持ちが今も脳裏に浮かぶ。今回の捜索救助活動では、中日の関係者は言葉が通じない中ではあったが、力を合わせて協力した。日本救援隊も何回も北京消防隊、綿陽消防隊など多くの中国救助隊と力を合わせ、合計 22 体の遺体を発掘した。

   日本救援隊、救助資材を中方に寄贈

  小泉嵩隊長はとくに中国の若いボランティアに言及した。青川県橋庄鎮での徹夜救助活動の過程で、北京から来た 3 名の若いボランティアたちが自分の車で宿舎と現場を往復して支援してくれたという。「中国の方とこういう形で共同して活動できたことは特筆に値すると思います」 ・・・ 小泉嵩はそう語った。
  そういう例なら、北川県住民の代国章さんにも触れたい。代さんは地震で両親を亡くしたが、日本救援隊が北川の曲山鎮で捜索にあたると聞くや、救助指揮部に志願、廃墟の中で日本救援隊の道案内を買って出た。
  青川の中医病院の捜索現場では大地震に見舞われたばかりの普通の住民たちが政府から配給されたカップ麺の箱を持ち寄って隊員にお湯を渡していた。「この人たちは危険を冒して我々の家族を捜す手伝いに来てくれているんだから、我々も当然、彼らのために何かしなくては・・・」 素朴な口ぶりに善良さが滲む。このカップ麺は日本救援隊が捜索活動を始めて十数時間後、初めて口にした暖かい食事になった。
  北川地区を離れる際、日本救援隊は災害用発電機、照明灯、専用工具、テント、折り畳み式椅子や雨合羽、電池などの器材を 「救助活動の足しに」 と希望しながら贈った。

   成都市民、深夜に日本隊員を見送る

  19 日深夜、成都に戻った日本救援隊員たちを意外な一幕が待っていた。成都市民が道の両側に列をなし、誰が音頭を取るでもなくバスから下車する隊員達たちに熱烈な拍手を送り、次々とケータイカメラで彼らの写真を撮り、北川から戻ってきた勇士たちを歓迎したのだ。橙とブルーのユニフォームを着替えることも服のホコリを払うこともなく戻ってきた隊員たちは、思いがけない歓迎を受けながら、道の両側の市民たちに繰り返しお辞儀をしていた。
  20 日深夜にも雨の降りそぼる成都の街角で感動的な別の場面があった。大勢の市民が隊員宿舎に充てられた四川賓館の入り口に集まり、帰国の途につく日本救援隊員を見送ったのだ。
  5 月 16 日未明 3 時から 21 日 1 時 50 分まで、日本救援隊員は 119 時間を中国で過ごした。田中一嘉隊員が述べていた 「今回の救助活動で中国国民との距離が縮まりました。中国に深い感情が湧きました!」
新華社 白洁记者
新华社成都5 月 21 日電




 

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