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「情報タダ」 の先にあるもの (独白)

筆者はネットにもメディア論にもとんと疎いので、専門家の方から見れば、以下記すことは非常に稚拙な感想に過ぎないと思います。しかし、以前から強く感じていることを 「独白」 したいと思います。


「情報タダ」 の先にあるもの (独白)



  筆者はネットにもメディア論にも、とんと疎い。以下記すことは専門家から見れば非常に稚拙な感想に過ぎないだろうが、以前から強く感ずることを独白したい。ツイッターではこなせない長尺なのでブログで 「つぶや」 くことにする。


  この1週間ほど、日経新聞電子版がスタートしたり、Mac の iPad 発売開始(米国) がセンセーションを巻き起こしたり、と情報のネット流通が一段と進む気配を感じさせるニュースが相次いだ。ツイッターの急激な普及もこの傾向に輪をかけている。考え方や関心事項を共有する 「お友達」 同士の情報交換で、知りたい情報にアクセスする効率はいっそう高まっている。

  ネットの攻勢に在来メディアや出版業界は押されっぱなしだ。多大な固定費を抱える在来ビジネスモデルでは歯が立たない。喩えて言えば、大艦巨砲の戦艦と航空母艦の勝負のようなものだ。とくに影響を受けているのは新聞を筆頭とするニュースメディアだろう。とにかくネットの興隆につれて 「ニュース見るのに金を払わないといかんの?」 という 「風潮」 が台頭してきたのが痛い (笑)。ポータルサイトはコスト構造が違うし、収入源はネット広告など別にあるから 「情報はタダ」 で構わないが、それが在来メディアの売上を直撃している。

  在来メディアには 「ネットにフリーライドされている!」 という不満があるだろう。しかし、津波のようなネット化潮流を前に 「商売敵には情報を流さない」 という訳にもいかない。無料ネット化記事を限定する、頭だけ公開して 「続きを読む」 で有料購読への誘導を図る…あれこれの作戦が講じられているが、功を奏しているとは言いがたい。

  問題は個々のメディアが大多数の読者に 「必需」 と感じさせるほどの差別化ができていないことだ。新聞各紙を読み比べれば同じニュースの報じられ方はずいぶん異なるので、「通」 はそこから行間を読み取るのが楽しみだが、大多数の読者は、A新聞の報じ方を知らなくても、ネット転載されたB新聞の記事でニュースのあらましを知ればそれで十分なのだ。


  先週電子版を始めた日経新聞は主要紙の中で最も差別化された立場を恃んで、賭けに出たように見える。一つは 「紙+電子版:5000円、電子版のみ:4000円 (つまり紙の既購読者は1000円の追加だけで済む)」 の価格戦略、もう一つは 「個別記事へのリンク禁止」 だ。これまで無料ウェブで公開されていた日経の記事は先週以降、いっさいリンクできなくなった。

  電子版の価格は年間48000円、FTが299?、WSJ (Asia) が103?だから 「いい度胸」 だ (笑)。同社は 「世界を相手にできる英字紙とガラパゴス市場に棲む邦字紙はコスト割りからして違うから、一緒にしないでくれ」 と言うかもしれない。「気持ちは分かる」 が、冷たい言い方をすれば、それは 「供給サイドの理屈」 だ。

  おそらくリサーチをやって 「紙の読者は簡単にネットオンリーに逃げない」 という心証を得ているのだろうが、結果は如何?年間最低2ヶ月は海外にいる筆者は+1000円に惹かれて契約したが、今後ビューワーや通信環境が良くなったら、家で紙を取らなくなるかもしれない。多数読者がそうすれば森林資源の保全や物流の削減などエコに大いに資するが、いよいよ48000円分の値打ちを認めてもらえるかどうかの正念場が来る。

  「個別記事へのリンク禁止」 の方は既に強い反発を招いており、ツイッター上では 「日経電子版早くもオワタ」 などボロクソの言われ方だ。迷う決断なのかもしれないが、先行するFTもWSJもこんなポリシーは採っていない。今後日経記事のネット露出は大幅に減少する。5年、10年と持続可能なのだろうか。こんな言い方は失礼だが、総じて在来メディアのネット対策には 「ラッダイト運動」 (wikipedia)に似た行く末を予感してしまう。

  「情報タダ」 (ないし 「中抜き」) の風潮はニュースメディアだけの問題ではない。Kindle や iPad など電子書籍対応の本格端末と 「著者に売上の7割を取らせる」 と標榜する Kindle (Amazon) の出版モデルが登場したことで、次は出版業界が激動の時代を迎えそうだ。ネット時代の情報・著作の出し手は正当な対価を得られるのか、著作権制度はネット時代に対応した抜本的な改変を迫られるのではないか?といった問題は今後ますます切実になるだろう。日本の出版業界は黒船来襲に危機感を覚えて協会を結成したそうだが、これも 「ラッダイト運動」 のクチかもしれない。

  ただ、書籍出版業に関して言えば生き残りの余地はあると思う。もともと出版社は社会的なプレゼンスに比べて従業員もオフィスも意外なほど小さな存在だから、さらに“lite”なビジネスモデルを志向すればよいのだ。

  著者だけで本が成り立つ訳でないことは自著出版を経験すればすぐ分かる。電子書籍は表装の楽しみを奪うかも知れないが、表紙デザインは依然必要だろう。そして 「編集者」 の機能 (口説き、督促、激励、批評、校正 etc.)、それから宣伝。著者と Kindle (Amazon) 的媒体会社の間に立ってネット時代に相応しいインターミディアリ機能を発揮できれば、例えばそれで売上が2倍になるなら、著者は7割の半分をネット出版社に渡してもかまわない。それに、だいたい物書きは物ぐさと相場が決まっているから、メールで原稿ファイルさえ送れば後は一切をやってくれるのなら、出版社に5割渡してもかまわないという著者もいるだろう。

  そうしてみると、ネットが情報流通に与える影響を最も深刻に被るのは新聞社のような 「仕掛けが大きい」 (固定費が“lite”でない) 企業ということになる。今後、在来新聞社はビジネスモデルの大幅変更、というかリストラを余儀なくされるだろう。毎日新聞が口火を切った全国各地の支局廃止・通信社への代替、印刷・物流の合理化に見られるように、重荷になりつつある固定費を削ぎ落とし、ライター・編集機能への特化を図ることが否応なしになり、情報の受け手へのニュース伝達の面でもネット依存度が着実に高まるだろう。


  以上は技術革新に合わせて、どの業界も新たな生存の途を求めて変わっていかなければならないという、ある意味当たり前の話だ。筆者が懸念するのは、そこから先の話だ。

  ポータルサイトというのは右下がりの平均費用曲線を備える寡占化しやすい業界のようだ。仮にそこで上述のようにニュースを手始めに書籍、動画、とヒトの営む言論活動や知的生産の流通、消費を担う、つまり途方もない社会的実権を一握りの企業が手にすると、何が起こるのだろう。

  上で出版業の“lite”なインターミディアリ・モデルは成り立つのではないかと書いた。しかし、仮に Kindle (Amazon) のような会社がベストセラー作家と直取引するために、カネに物を言わせて有能なスタッフをリクルートして、販路を借りる出版業者ではオファーできない好条件を作家にオファーして、つまりインターミディアリ領域で競争を仕掛けたらどうなるか。出版専業企業は為す術がないだろう。

  私はそういう近未来のネット社会に直感的に怖さを感ずる。少数企業の経営者ないし経営陣が世のあらかたの言論の生殺与奪の権利を掌中にすると、ジョージ・オーウェルの 「1984年」 的な世界になりはしないかという怖れだ。

  Google のような会社はそういう批判が起きることを強く意識して、会社理念に真・善・美といった “virtue” を強く打ち出している (“...useful, fast, simple, engaging, innovative, universal, profitable, beautiful, trustworthy, and personable... Achieving a harmonious balance of these ten principles is a constant challenge. A product that gets the balance right is "Googley”...“Google's mission is to organize the world's information and make it universally accessible and useful.”...“The larger Google becomes, the more essential it is to live up to our "Don't be evil" motto.” Google HP より)。しかし、そうして“virtue”を強く打ち出されればされるほど、そこに一神教特有の、と言うか 「十字軍」 的な使命感を感じて不安になる。「善を目指す」 というが、善悪の判断は、誰が如何なる基準の下で行うのか。

  「大きすぎる力」 に対する警戒心や不安感は欧米にもあるはずだが、なにせ、こちとらは「多神教」風土の上に、「中庸」 の感覚まで持ち合わせているもんだから、Google のような単線的な進歩主義にはなかなか随いていけない。持続可能ではないのじゃないかと感じられてならないのだ。


  それでも、我々の生活、知的活動全般を押し包む 「ネット化」 の潮流は音を立てて進み続けるだろう。その先にどんな社会が待ち受けているのだろうか。そこではネット・インフラ産業への過度の権力集中を防ぐ知恵が生まれるだろうか、あるいは試行錯誤の末に持続可能な社会の役割分担が自然発生的に成立するのだろうか。

  すべてはこの技術革新の津波が退いた後にようやく明らかになることで、いまは見通すことができない。いずれにしても後世、21世紀は 「新興国台頭の世紀」 という以上に 「情報革命が人類社会に巨大な変化をもたらした世紀」 として記憶されることだろう。
平成22年4月8日 記




 

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