書評:「中国革命と軍隊」 阿南友亮著
前々回の「台湾海峡1949」に続き、また中国史の勉強をさせてもらいました。
本書は1920〜1930年代の広東省で、中国共産党が如何に軍隊を組織していったのか、それは当時の広東社会との、どのような関わりの中で行われたのか、を研究した学術書である。著者は東北大学大学院法学研究科の阿南友亮准教授、名前を聞いて「もしや」と思う方も多いだろう。阿南惟茂元中国大使のご子息である。
実証アプローチ
本書は足で稼ぐ実証アプローチを最大の特徴とする。著者は当時の文献を豊富に収蔵する広東省档案館(ダンアングァン)を始めとする現地のアーカイブに幾度も足を運んで、当時の実情を赤裸々に語る共産党内部文件を丹念に漁った。また、共産党と軍隊の組織化の舞台であった広東省の農村地帯にも足を運んだ(書中に写真・地図多数)。このアプローチには同じく研究者である母君の薫陶があるのかもしれない。
共産党の档案館で、外国人が共産党内部文書を閲覧できるのか? もちろん研究者だから許されるのだろうし、思想の解放が進んだ広東省では可能でも、中国全国どこでも許される訳ではないかもしれない。しかし、「共産党の秘密主義」という思いこみに囚われがちな我々日本人には、このこと自体が新鮮だ。
舞台となる時代と場所
さて、1920〜1930年代とは、どういう時代だったか。第一次世界大戦後の1919年に開催されたベルサイユ講和会議の結果に失望して「五四運動」が起きた直後、北京に袁世凱の後を継いだ段祺瑞軍閥政権があり、孫文は広東省で国民党による地方政権を樹立した「軍閥割拠」の時代だ。国共が分裂する1927年までは「連ソ容共」政策の下にあった国民党と共産党がともにコミンテルンの指導と支援を受けながら、地方組織や軍事組織の樹立のために合作していた。本書には蒋介石の率いる黄埔軍官学校の政治部主任が周恩来であり、卒業生多数が共産党の建軍に加わる様が内部文書も交えて描かれている。
本書の舞台である広東省(主に東部の東江地区)は、共産党革命史の源流地だったが、「正史」の舞台はやがて北隣りの江西省に移る。国共が分裂した1927年の8月1日、江西省で共産党勢力が「南昌起義(武装蜂起)」を起こし、そこで破れた共産党が井岡山に籠もり、そこで毛沢東が台頭していくからである(今日、8月1日は解放軍の建軍記念日、井岡山は革命聖地とされている)。本家広東省の共産党は、当初は国民党組織に言わば「巣食い」ながら、そして国共分裂後はこれと抗争しながら、農村地帯で党と軍事組織の養成に当たるが、本書では不良だった毛沢東と異なり優等生タイプだった広東省共産党のメンバーたちが、広東の現実とこれを無視したコミンテルン指示の狭間で懊悩する様がビビッドに描かれている。
主題:「土地革命戦争」史観への疑問符
本書の主題は、この広東共産党の軍事組織育成の過程を実証的に分析することにより、共産党の正統史観であった「土地革命戦争」が、多分に神話であったと明らかにすることである。「土地革命」とは、共産党が制圧したソビエト地区で、地主の土地を貧農・小作農に分配することにより、恩恵を受けた農民の「参軍参戦」を促すことをいう。土地分配が進展したことが大量の農民を解放軍に参集させ、国共内戦勝利に繋がっていく…これが正統史観であり、広東省はその実践の場として位置づけられてきた。
筆者は一次資料の丹念な分析を通じて、「土地革命戦争」史観を見直すために3つの小テーマを提示している。
第一は、清朝末期に遡る広東社会の混乱である。統治権力の衰微に伴う社会の荒廃、流動化のせいで匪賊が横行し、街と言わず村と言わず、自衛のための武装集団(郷団、民団、保衛団、商団等々)が無数に成立していたという。これら武装集団は匪賊との戦いだけでなく、地域間抗争、宗族間抗争(同姓からなる宗族と他の宗族の抗争であり「械闘」と呼ばれる。今日もなお時折発生している)に明け暮れていた。
著者は、当時の広東社会は「武装農民と武器弾薬が溢れるように存在」する「武装社会」だったと評している。また、共産党といわず国民党といわず、初期の軍事組織は、これら武装集団との協力、対立、併呑を通じて行われ、その軍事行動も地域、宗族間の武力抗争と表裏不可分な場合が多かったことを明らかにしたうえで、「広東の共産党は、極めて暴力的かつ宗族の紐帯が比較的強固な社会のなかで革命の基盤形成を模索した」という。国民党との抗争で山間地に追い込まれた共産党勢力は、闘争資金の多くを誘拐、掠奪に頼っていた様も内部文書で明らかにされる。
第二は、共産党の軍事組織は、どのような兵士によって構成されていたのか、である。「武装社会」の帰結として、あらかたは国民党軍から寝返った兵士、軍隊を渡り歩く傭兵、「兵痞」と呼ばれた兵隊くずれのゴロツキ、匪賊、流民・難民、貧困農民、失業者、孤児等がその主力であり、食料とわずかの手当、ときには襲撃の余禄としての略奪品をアテに参集した寄せ集めだったことが明らかにされる。
これは後の国共内戦期を通じての特徴であり、軍事科学院の研究によれば、1948年半ばの段階で、解放軍の「大部分の部隊」は、国民党将兵、一般の国民党員、土地革命に反対した「地主富農家庭の子弟」、「流氓」、「兵痞」を多数抱え込み、「大多数の連隊」では、補充兵の半分以上が国民党軍からの捕虜によって占められていた、とのことである。共産党が「土地分配」を「看板」に掲げたにも関わらず、土地の分配を受けて参軍した農民は、武装集団としては2部リーグのような「農民自衛団」を含めて考えても少数だったし、そういう農民は少数いても、土地や宗族意識に束縛された存在だった。
第三は、売り物の「土地分配」はどのように行われ、又は行われなかったのかである。「農民参軍」がうまく実現しなかった理由はハッキリしている。海陸豊や東江など初期に成立したソビエト地区においても、土地分配は殆ど実行できなかったことが内部文書で明らかにされる。そこには実情を無視した広東省党委員会やコミンテルン指令との葛藤も記されている。
共産党側の軍事組織の中には、有力宗族に対抗するために共産側に就いていた弱小宗族も多かった。宗族には当然地主階層もいるので、下手に「土地公有化」を進めれば彼らを離反させてしまう。また、農地の所有権・利用権を巡る現地の複雑な慣習は、経験の浅い共産党幹部の手に余る代物だった。ようやく敵対的な地主の土地を没収しても、佃農(力のある半自作農)だけが地代支払の義務を免れて富裕化するだけに終わる例が多かった。
著者は以上を総合して、次のような結論を導く。
(1)1920〜30年代の広東において、土地革命を通じて土地を得た農民が能動的に参軍して紅軍の基幹兵力や新兵の供給源になるという現象は、実際には起きなかった
(2)それにも関わらず、紅軍が成立した理由は、?「武装社会」に見られるように、武器の取り扱いに慣れ、戦闘の経験もある膨大な数の民衆が中国社会に存在していたこと、?北伐や党内抗争で戦力が分散していた国民党軍との戦いで紅軍側が武器・弾薬・兵士という養分を吸収しえたこと、?共産党がある程度の実効支配を成立させた地域では、住民を強制的に徴用することが可能になったこと等にあると。
著者は、近代国家の成立とともに、農村社会の変革を通じて国民軍を設立する試みは、コミンテルンの専売特許ではなく、当時既にドイツ、日本、ソ連で実現していた定石であったとしつつ、中国では、上記の事情により、共産党がこの定石に拠らずとも武装闘争を展開し、後に国共内戦で国民党軍を撃破することができる環境があったとする。実証的アプローチにより正統史観に大きな疑問符を付けたと言えるだろう。
感想
本書を読み通して、以下三つの感想を述べたい。
第一、射程を1920〜1930年代の広東省に限定した本書に続いて、著者だけでなく中国人学者も加わって、射程を国共内戦が終了する1949年まで延長し、また、他の地方の様子も明らかにしてほしい。土地革命の進捗の有無や兵士の調達方法については、国共内戦終結までの間、全国各地でも広東省と似た状況だったのだろうか。その他の点ではどうだったのか。とくに、広東省共産党は現地の実情を無視したコミンテルンの指示にも忠実に従って悩む優等生タイプだったが、隣の江西省で蜂起した毛沢東は明らかに違う不良タイプだった(笑)。土着性と鼻っ柱の強い毛沢東のアプローチは広東省と何が違って、どういう結果の差を生んだのかをもっと知りたくなった。
第二、著者に「武装社会」と命名された当時の広東省の民衆の暮らしは苛酷だと思った。本書を読んで、2回前の拙ブログに書評を書いた「台湾海峡1949」に、国民党政府の下にあった大陸の中学・高等学校の学生達が疎開の途上、ちりぢりバラバラになり、国民党軍と共産軍の「兵士狩り」に遭ってそれぞれの兵士にされるくだりがあったことも思い起こした。書評に「ほんの偶然が一人の人間の身分を何度も染め替えて、運命を木の葉のように弄ぶ。無数の不合理な別離、無数の殺戮、餓死、病死、凍死・・・身の上話で語られる物語は悲惨を極める。国共内戦の過酷さ、悲惨さを初めて知る思いがした」と書いたが、本書でも同じ思いをした。今日の中国では国民の暮らしを「小康」状態に持って行くことを目標としているが、その道程はこの苛酷・悲惨な戦前の暮らしを出発点とするものなのだ。
そして三つめの感想。「外国人」である著者が現地の档案館に通って一次資料を読み込み、新中国草創期の実像を明らかにしたのは、ある種の「快挙」である。档案館には貴重な歴史一次資料が眠っている。中国人は「外国人」が中国近代史の重要部分を解明したことに「心中複雑」かも知れないが、正統史観があったが故に「盲点」ないし「空白」が生まれた結果「外国人」が着眼できた、いわば第三者による「傍目八目」が成り立つ論点だったと思えばよい。
人によっては、正統史観に異を唱える内容であることに反発するかもしれないが、それも無用のことだ。いまや中国も世界第二位の大国に復帰した。思いこみやタブーに囚われずに、自国の歴史を読み直す余裕が生まれてしかるべき時である。中国は歴史学に限らず更には人文化学にも限らず、世間の流行に踊らされずにオリジナリティのある学問を探究する気風がまだ不足しているように思う。本書は是非中国語に(英語にも)翻訳して、中国歴史学者の発奮を促してほしい。
(平成24年10月7日記)
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