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中国1989年〜1994年 中国共産党に何が起きていたのか

前回のポストで書き切れなかったことを書きます。前回お断りしたように、内容が「オタク」 な上、自分の学習ノートのつもりで文献を引用するので長文です。お許しください。


中国1989年〜1994年
中国共産党に何が起きていたのか




  天安門事件によって、思想信条の空白と共産党の正当性の失墜という問題に直面した共産党政権は、思想と正統性の立て直しのために、毛沢東時代にいったん断絶していた愛国主義教育を復活させた。「勿忘国恥」 という 「被害者の物語 (マスター・ナラティブ)」 が 「中国という国に構造的に組み込まれ、政治機構に深く根を下ろし、共産党の新たなイデオロギー上のツールとなった。」

というのが前回書評で取り上げた 「中国の歴史認識はどう作られたのか」(以下原著名の 「勿忘国恥」 で引用する) の著者汪錚(ワン・ジョン) の基本認識だ。

  そのことは、こんにちの日本で半ば 「常識」 と化しているが、最初にこの問題を指摘した鳥居民氏の 「『反日』で生きのびる中国」 (2004年草思社刊) のインパクトが強すぎたせいで、ややもすれば 「江沢民が1994年に愛国主義教育を始めた」 式に、単純に理解されてきた。しかし、「勿忘国恥」 を読むと、その理解は次の点で修正すべきだと分かる。

 (1) 江沢民の発案ではない
教育を改めるべきという認識は、89年6月の天安門事件直後にも、実力者小平から表明されていた (「勿忘国恥」p143及び末尾4章注7)。それは当時の中共の総意のように見え、江沢民総書記は党の機関としてそれを 「執行」 したように思える。
 (2) 愛国主義教育の起点は1994年ではなく1991年である
この年の3月、江沢民主席が教育部宛てに書簡を発し、人民日報にも掲載された。江沢民はこの中で、教育現場は 「被害者としての物語」 と共産党による 「外来勢力との闘争」 の歴史を強調するように求めた (「勿忘国恥」144p)。さらに、同年8月 「歴史的文物を充分に利用して愛国主義と革命の伝統について教育を行うことに関する通知」 (中宣部/国家教委ほか)、「小中学校で中国近現代史と国情教育を強化することに関する要綱」 (国家教委) が発出された (同書144p)。
 (3) 決定から実施までに 「空白の3年間」
しかし、91年にいったん 「機関決定」 されたはずの 「愛国主義教育」 が現実に動き出すのは94年であり、途中に3年の空白が挟まっている(同書p147)。
  今回書きたいのは、この89年から94年という時期に、中共の中で何が起きていたのか?だ。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

  【エピソード1: 天安門事件から 「南巡講話」 に至るまで】
天安門事件の後、保守派の力が強まり、改革開放はいっとき頓挫しかけた。これに危機感を覚えた小平は、引退後の身にも関わらず 「南巡講話」 で反撃に出て、改革開放を元の軌道に戻した。
  教科書的に要約すればそうなるが、もう少し肉付けしたい。前々回のポスト「改革か保守か−改革開放後の中国の経済政策とその変遷」のために読み直した馬立誠 「交峰−改革開放を巡る党内抗争の内幕」 (1999年中央公論新社刊) によれば、天安門事件から 「南巡講話」 に至る3年間は、まさに激動の時期だった。
80年代後半、経済はまったく上手く行っていなかった。インフレ、国有企業の衰退、腐敗と精神的退廃の顕在化・・・そして89年春、政治の民主化を求める学生運動が大きく盛り上がる。6月初め、党中央はこれを 「反革命動乱」 と認定して血の鎮圧を行うが (天安門事件)、たちどころに国際社会の非難を浴び、G7諸国から経済制裁を受ける。
同時期に東欧諸国で連鎖的な体制転換が始まり、91年には旧ソ連が解体した。「友邦が消滅していく」 ―― 中国にとっては甚大な衝撃であり、とくに保守派は、そこに西側の 「和平演変」 陰謀を見て取って、ますます頑なになった。「ソ連に代わって社会主義宗家を相続しなければならない」 といったムードも生まれた (これは小平が 「韜光養晦」 講話で否定した)。
左派・保守派にしてみれば、近来の禍々しい出来事は 「改革開放のせい」 だった。天安門事件後、党や政府では厳しい思想調査が実施された。改革志向の職員が職場を追われ、改革開放の前線指揮所だった体制改革委はいっとき機能停止してしまった。90〜91年は、保守派のメディアや論壇で左派の 「社会主義か資本主義かを問う」 キャンペーンが展開され、多くの人が 「貧しくて重苦しい昔に逆戻りか」 と、不安とやりきれなさを覚えた時期だったが、翌92年の初め、小平が「南巡講話」の反撃を開始する。
  「愛国主義教育」 が機関決定された91年は、こんな時期だった。

  【エピソード2: 日中外交】

  天安門事件後に中国がG7の制裁を受けていた頃は、逆に日中関係に大きな進展が見られた時期でもあった。日本は、西側の制裁が中国を保守的な方向に追いやり、小平が始めた 「改革開放」 が頓挫してしまうことを恐れたのである。では、この時期の中共は日中関係について何を考えていたのか−−それを描写した書物として、当時の外相銭其琛の回想録 「外交十記」 (2003年 中国 世界知識出版社) がある。

    89年2月 昭和天皇の崩御と大喪
崩御の後、日本では昭和天皇の戦争責任問題について論議が起こった。竹下総理は国会で 「先の戦争が侵略だったか否かは、後世の歴史家が評価すべきだ」 と答弁、また味村法制局長官は 「国内法から見ても国際法から見ても、昭和天皇に戦争責任はない」 と答弁した。
これが中国との間で新たな紛議を生んだ。銭其琛は、中国が大喪に特使を派遣することについて、「国内からも海外華僑からも大量の手紙が届き、派遣の格式を上げるな、はては特使を派遣するな、と求めた」 と記している(「外交十記」114p)
大喪3日前の2月21日、竹下総理が答弁について、「日中共同声明での認識に変化はない、先の戦争でアジア諸国の国民に重大な損失を与え、国際的に侵略と認識され、強い批判を受けている事実はじゅうぶん認識している」 等の表明を行い、中国にも伝達された。中国はこの表明を諒として、銭其琛を大喪に派遣した。
    対中制裁解除

  銭其琛は、天安門事件に対する西側の制裁と日本の立場について、次のように記している。
「制裁に加わった国の中で、日本は一貫して制裁に消極的な役割を演じた。G7による制裁にも、西側の一致した立場を崩さないために、渋々と同意した」 「日本は天安門事件翌年の90年には第三次対中円借款を再開する決定を行った」 「そうしたのは、日本自身の利益のためであるが、日本は西側の対中共同制裁戦線の弱い一角であり、自ずと中国が西側制裁を突破するための最もよい(最佳)突破口になった」 「91年8月に海部総理が訪中、西側制裁後中国を訪問した西側首脳となり、名実ともに対中制裁を解除し、二国関係の修復が完了したことを示した」 「海部総理の訪中中に、中国は核不拡散条約に原則として参加することを表明、日本は第三次円借款として1296億円を供与することを決定した」 (「外交十記」191p)
  92年4月には江沢民主席が訪日、10月には明仁天皇皇后両陛下が訪中した。
「天皇の訪中は、中日二千年の交流史上初めてのことであり、これで中日の往来は新しい高みに達した。同時に、この訪中は西側制裁を打破するために積極的な作用を及ぼし、その意義は明らかに日中二国関係の範疇を超えるものになった」 (「外交十記」 195p)
  どちらのエピソードも、とくに下線部を読むと、日本人として苦いものを感ずるだろう。

  【エピソード3: 中国領海法の制定】

  2012年9月の尖閣 「国有化」 以降、中国は、日本が国交回復時、さらに平和友好条約締結時に存在した 「棚上げ合意」 を破ったと激しく非難した。しかし、よく知られているとおり、中国も92年2月に 「領海法」 を制定して 「中国の領土は台湾及びこれが包括する釣魚島を含む附属諸島…を含む」 (同法第2条) と規定した。

  法律を制定することは別段、現地で現状を改変することにはならないが、中国が従来主張してきた「棚上げ」とは明らかに異質な行いだった。仮に 「現地で現状を改変するといった行いでなければ、棚上げ合意に反しない」 というなら、日本政府が土地所有者から所有権を譲り受けた行為だって同じ。すべて東京の紙の上での話だった。

  私は以前から、なぜこのタイミングで、中国領海法がこの定めを置いたのか、訝しく思っている。その直前に日本政府が 「棚上げ合意に違反した」 といった経緯も見当たらない。当時の中国は、天安門事件後の国際的孤立を突破することが重要な外交課題だったのに、なぜ隣国日本と事を荒立てかねない措置を採ったのか…。

  この謎については、未だこれといった資料を探し出せていない。唯一ネットで下記のくだりを見つけただけである。
「92年、初めて釣魚島を法律に規定した過程は、非常に曲折したものだった。立法過程に参与した国家海洋局元政策研究室副主任の許森安が ≪中国新聞週刊≫ に語ったところでは、関係の政府部門は、これが関係国家の反発を招くことを恐れて、法律に釣魚島を規定することに反対し、この内容を何とか消そうとした。全人大が開催した討論会でも激論が交わされた。しかしその後、全人大法工委員会の努力によって、やっとこの規定が取り入れられることになった。」 (「海洋“闘”法」
  やはり、中国国内でも法制化の当否については争いがあったのだ。ちなみに、領海法案の起草作業は84年に始まったが、紆余曲折や停滞を経て、91年10月の全人大常務委で初めて審議され、翌92年2月の常務委で可決されている。

  これに先立つ90年10月には、中国外交部斉懐遠副部長が橋本駐中国大使を招いて、改めて 「棚上げ合意」 を念押しする発言をしている (孫崎享 「日本の国境問題」)。おそらく外交部は法制化に反対した 「関係の政府部門」 なのだろう。

  しかし、日本は 「領海法の制定に抗議した」 が、それ以上事を荒立てなかった。小平がまさに南巡講話をやっている最中だったからだ。「ここで日本が強硬な姿勢を採れば、中共の保守派を刺激し、小平の改革の妨げになる」 ―― 外務省の人によると、そんな判断があったようだ。

  【エピソード4: 「愛国主義教育」 開始までの 「空白の3年間」】

  冒頭述べたとおり、91年にいったん 「機関決定」 されたはずの 「愛国主義教育」が現実に動き出すのは94年で、その途中に3年の空白が挟まっている。汪錚の 「勿忘国恥」 は、この空白について、政治学者趙穂生の表現を引用して以下のように記している(同書147p)。
この時期は、政治的に比較的安定し、知識人の活動が停滞した上、92年に小平が行った『南巡』以来の経済成長もあって、多様な利害をナショナリズムという一つの傘の下に統合するチャンスが生まれた。こうして、91年から3年の準備期間を経て、中国政府は全土にわたって大々的な愛国主義教育キャンペーンを展開することができた。
  この書き方は中国経済屋から見ると物足りない。小平が中共内の左派の攻撃を撥ね除けて 「南巡講話」 で反攻に転じた91〜92年頃の内政・外交情勢については、既に紹介したが、同じ頃、経済政策の面でも息詰まるドラマがあった。当時体制改革委主任から計画委主任と、まさに肝となる要職を歴任した陳錦華の回想録 「国事憶述」 (2007年日中経済協会刊) が当時の様子を記している。
「市場経済」 を肯定するかどうかの左右の争いは南巡講和後も続いた。この間に国有企業の経営メカニズム転換や株式制の導入等が決まったが、この過程でも左派の抵抗は続き、10月の第14回党大会で 「社会主義市場経済」 が明確に打ち出されるまで続いた(同書第5章)。
陳錦華は93年3月に体制改革委主任から計画委主任へ異動したが、それは 「改革をする側から改革される側へ」 代わったようなものだった。新主任を受け入れる計画委の役人には戸惑いと警戒があった。第14回党大会後の計画委では、いっとき訪問者が減って閑古鳥が鳴き、役割喪失感を覚える役人もいた(同書359p)。
しかし、経済局面は93年以降、急激に変わった。南巡講話と第14回党大会以降、「人々が理論上の迷信や思想上の束縛から解放され」、「億万の人民大衆の積極性に火を付けた」 (同書365、372p) ことが、巨大な経済ブームを引き起こしたからだ。無秩序な資金集め、不動産・開発区熱、需要の急膨張、貿易赤字の急拡大など、空前の経済過熱が起こった。とくに消費者物価が93年6月に前年比13.9%、94年10月には25.2%にも達し、民衆の不満が急激に高まった。
経済過熱を抑えこむことは焦眉の急だったが、他方で 「第14回党大会決議と南巡講話の精神貫徹の方針に悪影響を与え、改革開放の勢いに逆転が生」 ずることがあってはならなかった (369p)。マクロ・コントロールにより、経済をソフト・ランディングさせる難しい綱渡りが始まった。陳錦華と計画委はこの仕事に忙殺される。

  つまり、「天安門事件の衝撃で頓挫しかけた改革開放は、南巡講話で息を吹き返した」という簡単な話ではなく、今度は抑圧の反動で経済が暴走しかけた、ということだ。暴走を止められなければ、南巡講話による逆転も、またひっくり返されかねない。

  「勿忘国恥」 が言う 「91年から3年の準備期間」 は、改革開放が堅持できるかどうかの天王山の時期でもあった。小平も江沢民 (当時主席) も李鵬 (当時総理) も朱鎔基 (当時副総理) も、当時のリーダーたちは、まさに乾坤一擲の気構えで、この課題に集中していたはずだし、社会も空前の経済ブーム (悪く言えば 「浮ついたバブル気分」) とインフレの昂進により、「愛国主義教育」 どころではなかったのではないか。

  これが 「空白の3年間」 の唯一の理由なのか、他に未知の内部事情があるのか ――そこは今後も勉強を続けていこう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

  幾つかのエピソードを交えて、89年から94年の中国を振り返ってみた。改めて中国の国政全般にわたって大きなスイングが何度も起きた激動の時代だったことを痛感する。

  そう述べた上で、二つ感想を記したい。

  第一:小平以来、中共では 「経済優先・政治改革劣後」、「政治の集権化・権力壟断」の方針が連綿と引き継がれている。「新権威主義」 とも呼ばれるこの方針は、最終的には 「中産階級を育成し、それが充分育ったところで民主政治に移行する」 とされるのだが (岳麟章、鄭永年ら)、見通せる近未来において、中共集権・権力壟断を変える気配はない。

  しかし困るのは、中共内部がちっとも一枚岩ではなく、市場経済や国際協調に反対する左派・保守派を懐に抱え込んでいることだ。89年から94年の時期は、「経済優先」 のために、この左派・保守派がどんどん押し込められていった時期だった。当然不満が溜まる。とくに天安門事件後のいっときは、党外に大衆からの信認喪失、党内でも左右の対立がピークに達した時期で、まさに「内憂外患」だった。

  「愛国主義教育」 は、小平を筆頭とする主流派が中共のサバイバルのために確信的に選び取った選択だが、同時に (または結果的に)、左派・保守派にも国粋主義で息抜きする空間を提供する妥協の意味合いを持っていたのではないか。別に 「玩具を与える」 つもりではなかっただろうが、左派・保守派にとっては、経済政策で溜まる鬱屈を晴らす気分転換の場にはなっただろう。

  西側は 「経済の改革開放が進み、中国が豊かになれば、やがて政治体制も民主化の方向に、外交政策も国際協調の方向に転換するのではないか」 という期待を抱いてきた。しかし、中共が党内に根強い左派・保守派を 「包容」 するために、「経済市場化」 と 「ナショナリズム発揚」 をトレードする必要があるのだとすれば、市場改革を加速するぶんナショナリズムを発揚して、左派・保守派の不満を 「補償」 しなければならなくなる、ことはないのか。

  習近平主席はいま三中全会決定に基づいて 「市場化改革」 を加速しようとしているが、同時に 「中国夢」 を標榜している。この 「中国夢」 は、近年の 「大国化」 の成就を踏まえて、これまでの 「被害者の物語」というマスター・ナラティブをもう少し明るくて前向きな内容に改訂しようとするものにも見える。しかし、他方で、ナショナリスティックな自我をくすぐり、「被害者のルサンチマン」 の代わりに、「大国の傲慢とエゴ」 を増長させる恐れがある。近年の 「大国中国」 と 「周辺国」 を対比する論調や最近の李克強総理訪英に見えた他国を嘲る気分 (環球時報社説) には、その徴候が見えている。

  「中国夢」 がどの方向に向かうかを見極めるためにも、この仮説を保持・吟味すべきではないだろうか。

  第二:89年から94年の時期は、日本の対中外交に後の災厄をもたらす種を蒔いた日々だった。本稿で取り上げた天安門事件後の日中関係のエピソ−ドをみると、当時の日本外交が中国の改革開放を支援しようと懸命だったこと、中国も天安門事件後の国際的孤立を脱するのに必死だったことが分かる。しかし、銭其琛の述懐はそういう日本を 「利用してやろう」 という狙いが露わであり、とくに天皇陛下 (訪中) をだしに使ったかの如き物言いは、我々日本人の気持ちを傷つける。

  そして、改革開放に懸命に協力した日本の対中外交は、中国領海法の制定と、主として日本に向けられた 「愛国主義教育」 キャンペーンで報いられることになった。

  領海法は、まさに小平の南巡講話と同時期に制定された。小平らが改革逆行を逆転することに忙殺されて、他のことには気が回らなかったせいなのか、社会主義市場経済を左派・保守派に呑ませるための取引材料が必要だったのか、未だに真相が分からないが、改革開放と孤立脱出に協力していた日本に対しては、ずいぶんな 「報償」 である。そんな仕打ちに対しても、「中共の保守派を刺激し、小平の改革再起動の妨げになる」 ことを恐れて、事を荒立てなかった日本の反応は、いま思い返してみて、哀しい。

  「愛国主義教育」 の結果、中国のTV、映画には憎しみを煽る 「反日もの」 が氾濫した。学校で用いられる教科書自体は、意外に客観的な要素が増えていることが観察されているが、大衆向けのキャンペーンとメディアにおける 「反日娯楽」 が流した毒はまことに大きい。

  別に、だから 「恩を仇で返された」 と恨み言を言いたい訳ではない。外交にそういう見返りを期待しても、まま裏切られるものだ。中国、中共は、自らのサバイバルで頭がいっぱいだったのだろう。喩えて言えば、サッカーのキーパーが次々と枠内に飛んでくるシュートをパンチングでしのいでいたら、弾いたボールがたまたまゴール脇に居た人に続けて当たったようなもの ―― 中国に協力した日本をことさらに貶めようとする 「悪意」 は、トップにもなかったと推測する (「不是故意的」 (わざとじゃない) という中国人の口癖を思い起こす)。

  しかし、これだけは中共に言っておきたい。90年代以降、伝統的な 「親中派」 の陰が日本でみるみる薄くなっていったのは、この一連の経緯に負うところが大きいのだということを。

  相手に入れ込んだ挙げ句フラれる失策を犯した 「親中派」 は日本の大衆からマイナス考課を受けて退潮、いまや絶滅危惧種になった。「中国に親しみを感じない」 日本人が圧倒的多数になった。(日本の国益に資するとは思わないが、)世界中で日本がいちばん 「中国の脅威」 を言い募る国になった。

  それらは中国の 「識者」 が分かった風に解説する 「隣国の台頭を受け容れられない嫉妬の心情」 だけが理由ではない。いま中国の指導者は、日本の 「中国脅威論」 に辟易しているようだが、中国が原因を作った側面もある。「故意ではない」 にしても、「中庸」 を失すれば 「応報」 があるのである。
(平成26年6月21日 記)




 

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