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中国の 「愛国主義」 について

リットン調査団の報告書を読んだら、非常に興味深い事実が分かりました。


                   中国の 「愛国主義」 について
                  「リットン調査団報告書」 を読んで


  「リットン報告書」 を読んだ。満州事変後、国際連盟が派遣した、あの有名な調査団の報告書だ。たいていの方は名前を知っているだろうが、現物を読んだ人は歴史研究者を除けば絶無に近かっただろう。しかし、渡部昇一教授の編集で 2006 年に日本語版 (「全文 リットン報告書」 ビジネス社刊) が出たおかげで、自分で読む機会を得た。その中で中国のナショナリズムや愛国教育について一つ発見があったので書き記したい。

  日本では、中国ナショナリズムと言えば 「中国共産党が体制の正統性を確保するためにやってきた 『愛国教育』 の産物」 という理解が通念化している。敷衍して 「愛国教育は 1989 年の天安門事件で国民の共産党に対する信認が地に落ちたのがきっかけ」 とか、「江沢民前主席が教育強化を主導した」 などとも言われる。
  過去 20 年の間に、そう受け取っておかしくない流れがあったのは事実だと思う反面、そういう理解に違和感も覚えてきた。一言で言えば、「そんなに根の浅い話か?」 という疑問だったのだが、リットン報告書が七十数年前に同じ問題を取り上げていた。

  近代シナのナショナリズムは、シナがいま経験しつつある政治的時期におけるごく通常の事象であり、これと同様の国民感情ないし願望は同じような状態に置かれたいかなる国においても見ることができる。しかしながら国民党の勢力は、国民的統一を意識するにいたった人民が外圧から逃れようとする自然的欲望に加え、いっさいの外部勢力に反感をもつという異常な色彩を、シナのナショナリズムに注入してきた。
                      ・・・
  シナはワシントン会議を機に諸問題を解決するための国際的協調の道に入ったのだから (後掲筆者注)、その道を進んでいけば、これから先の十年間にさらに顕著な進歩をなしとげることができるはずだ。ただし、シナは毒々しいまでの(筆者注:原文では“virulent”) 排外宣伝を行っているため、それが障害になっている。排外宣伝はとくに二方面において実行され、その結果、現在の紛争 〔満洲事変〕 を勃発させるような雰囲気を醸成している。ひとつは第七章で記述するような 〔日本製品に対する〕 経済的ボイコットであり、もうひとつは諸学校で行われている排外教育である。
                      ・・・
 だが不幸にして、青少年の教育にあたっての注意は、ナショナリズムの建設的方面ではなく、むしろその否定的方面に注がれている。諸学校の教科書を熟読するものは、その筆者が愛国心を燃やすのに憎悪の炎を焚きつけ、男性的精神を養成するのに 「われわれは虐待されている」 という被害者意識を利用しているような印象をもつ。その結果、学校で植えつけられ、社会生活のあらゆる方面で実行されている毒々しいまでの排外宜伝は、学生を政治運動に駆り立て、時には国務大臣その他の官憲の身体や住まい、官庁などを襲わせ、さらには政府の転覆をはかるような事態を生んでいる。こうした態度は、有効な内部的改革や国民的資質の改善を伴わないため、ただ諸外国を驚愕させ、現在、諸外国の唯一の保障になっている諸権利の放棄をますますためらわせることになっている。

(お断り:本書は“China”の訳語に 「シナ」 を用いているが、知るかぎりでは中国人は日本人から 「シナ」 とか 「シナ人」 と呼ばれることを不快がる。戦前と同じ 「シナ」 の呼称に中国への蔑視を感じるようだ。筆者は相手が嫌がる呼称は使わないのが礼儀だと思うので、この訳語を見て困ったが、「引用」 をするときに 「改竄」 する訳にもいかないので、やむなく本書の訳に従ったことをお断りしておきたい。)


  これを読んで、以前本ブログで取り上げた中国の人気週間コラム 「氷点」 の停刊事件を思い出した。「氷点」 は 2006 年 1 月に中山大学 袁偉時教授の 「現代化と歴史教科書」 という論文を掲載した。この論文は 19 世紀清朝末期に起きた二つの排外事件 (円明園焼討事件と義和団事件) を題材にとって、当時の中国 ( 民衆 ) の行動には狭隘な排外主義的性格があり、それが後に大きな災厄を招いたと批評するとともに、中国の教科書が今なお 「『 洋鬼子 』 は侵略者であり、中国人がすることこそ道理に合っている」 式に教えていることについて、もはや時代に合わず、有害だと批判したものだったが、これがメディアを統制する共産党宣伝部の逆鱗に触れて、停刊処分を受けたのだった。
  袁教授論文だけではよく分からなかったが、リットン報告書を併せ読むと、「排外主義」を学校で肯定的に教えることは決して中国共産党が最近始めたことではなく、戦前 (おそらく1920年代) から一貫して続いていることであり、謂わば中国近代の教育と精神史を貫く 「根の深い」 傾向なのだ。
  根底には中国が過去 100 年以上にわたって受けた民族の屈辱と怨念の意識 (トラウマ) があり、これが歴史教育を容易には変えさせない強い 「タブー」 を生んでいるのだと思う。このタブーあるがゆえに、「愛国」 を掲げていれば、若者が多少暴れても捕まらないような現象が一方にあり、他方では、歴史認識を修正しようとすると 「氷点」 のように共産党・政府の厳しい統制に遭ったり、ネット上で「愛国」的なネチズンから袋だたきにされたりする現象がある。

  中国が戦前に置かれた境遇を振り返るならば、当時の 「排外主義」 は他に手だてを持たぬ弱者の抵抗として無理からぬ側面があったが、いまや時代は巡り、中国は超大国への道を駆け上がりつつある。境遇が全く変わったのに教育が変わらない不合理さは明らかだ。そのことは、昨今過激化するナショナリズムの扱いに頭を悩ます共産党が一番理解していると思うが、長い歴史を持つ強固なタブーが生んだ 「愛国教育」 の排外的傾向を修正することは、共産党を以てしても容易ではないだろう。
  しかし、聖火リレーを巡る中国内外での騒動を見て、この 「修正」 がいよいよ喫緊事になったと痛感した。海外が一斉にチベット問題を批判したとき、あれほど多くの中国人が 「いじめられる中国」 を強く連想したことには、変わらない教育の影響をまざまざと感じた。
  そう受け止めた在外中国人はリレーが行われた海外諸都市の街頭を五星紅旗の赤で埋め尽くし、豊かで力を持つようになった中国のパワーを世界に見せつけた。街頭に大挙集まった中国人がオリンピックと祖国の名誉を守るために必死だったことはよく分かるのだが、結果だけ見ればインパクトが強すぎて、「被害者意識」 と 「パワーの誇示」 の組み合わせがちぐはぐになってしまった。
  そして、海外で五星紅旗の波、中国でカルフール不買運動という反撃のダブルパンチを受けて、世界中がショックを受ける様を見て、「日本は2005年春に反日デモの洗礼を受けて 『免疫』 ができていたが、世界にとっては初めてに近い経験だったのだな」 とも感じた。

  中国は世界と協調的な (中国式に言えば 「和諧」 的な) 関係を築いていかなければならない。そのためには、そろそろこの問題と正面から向き合う必要があると思う。「修正」 するかしないかは中国人が決めることだが、早く舵を切れることを願う。
  同時に、「拍手は片手ではできない (一手拍不響)」ということわざのとおり、世界の側も中国に 対する偏見や嫉妬心を改めなければならない。このことは 5 月 9 日付け本稿前々々号でも述べた。とくに隣国である日本は、明日の超大国中国が仲良く共存・共生し合えるような隣国になるように、自らも偏見等を改める努力をすると同時に、中国の好ましい方向への変化のために協力、働きかけもしていく、世界と中国の和諧のために両者の間に割って入れる機会があれば、率先努力するべきだ。それが日本の国益に適うことだし、中国を傷つけた最大の原因者としての責務でもあると思う。それで中国が変わってくれるという保証はないが、それしかない。
(平成 20 年 6 月 11 日 記)


注:ワシントン会議について
  1921?1922 年に行われたワシントン会議 (日本では主に海軍軍縮交渉の場として記憶される) は、軍縮条約以外に別途、極東の安定、中国における機会均等と主権の尊重を謳った 「九カ国条約」 を締結、日本はこれに基づいて 1922 年、第一次世界大戦の戦利としてドイツから獲得した山東権益のかなりを中国に返還した。
  第一次世界大戦の前後は世界が大きく変わった時期だった。帝政ロシアが崩壊し、代わりに成立したソ連は 「対中不平等条約を破棄する」 と宣言、欧州列強は第一次世界大戦で疲弊、それまでの宗主国的な権勢を失った。その傍らで 「ウィルソン 14 ヶ条 (国際平和機構の設立、軍縮、民族自決、植民地問題の公正解決など)」 を掲げる世界の新盟主、米国が台頭するなどの出来事が続いたからだ。
  世界が大戦後の新秩序 (いわゆる 「ワシントン体制」) を模索する中、列強の中国侵略についても 「潮目が変わった」 ように見える一時期があったのだろう、ようやく国民的統一が芽生えてきた中国でも 「新秩序」 への期待が高まった。
  しかし、もう一つの新興勢力、日本が世界大戦さなかの 1915 年に悪名高い 「対支21箇条要求」 を行い、1919 年のベルサイユ講和条約でドイツが山東省と青島 (租借地) に持っていた権益を獲得するに至り、「新秩序」 に希望を寄せていた中国人は不満を爆発させ、中国近代ナショナリズム運動の嚆矢とされる 「五四運動」 が起きた。
  ワシントン会議によって、中国が 「潮目の変化」 に寄せた希望は全て無に帰することは免れたというものの、もとより中国の満足には程遠かった。この頃、国民党政権は内では軍閥と戦い、外では日本の圧力に抗しながら、nation states の建設に悪戦苦闘していた。「愛国教育」 はこの頃に始まったのだろうと思われる。・・・そして約 10 年後に満洲事変が勃発した。
  リットン報告書は、この時代に満州 (東三省あるいは現東北地方) の地で、あるいは日中両国間で何が起きていたのかを、政治、経済、国民意識など多面的、総合的にまとめ上げた資料として非常に優れたものである。ある程度予備知識は必要だが、研究者でない人間が読んでも面白い。筆者は 「愛国教育」 以外でも、朝鮮人問題が満州に落とした影、日貨排斥運動の実態と影響など、これまで認識不足だった点について多くの発見ができた。





 

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