「二項関係」 とは何か
森有正の 「日本語・日本人」 論の三回目、いよいよ核心の「二項関係」論を取り上げます。
「二項関係」 とは何か
(森有正の 「日本語・日本人」 論 第三回)
今回は、森有正の日本人・日本語論の核心をなす「二項関係」 の考え方を検討してみる。
「二項関係」 とは、二人の人間が内密な関係を経験 《注:「経験」 は森独特の概念。後で解説する》 において構成し、その関係そのものが二人の人間の一人一人を基礎づけるという結合の仕方である。
「日本人」 において 「経験」 は複数を、更に端的には二人の人間 (あるいはその関係) を定義する。《注:森は、そうやって定義される二人の関係がほとんど上下・垂直関係であることも特徴だとしている》
…二人の人間を定義する、ということは、我々の経験と呼ぶものが、自分一箇の経験にまで分析されえない、ということである。
「日本人」 においては、「汝」 に対立するのは 「我」 ではない…対立するものも亦 (また) 相手にとっての 「汝」 なのだ。
《これと対比して》 ヨーロッパの場合をとってみると、「経験」 は、主体である自己を定義するのである。そして他は、「汝」 である前に三人称の 「かれ」 である。そして自己の対極となる社会は第三人称としての他人の総体である。
( 「出発点 日本人とその経験 (b)」)
これだけでは分からないので、他の場所から具体例を探してみる。
親子の場合をとってみると、親を 「汝」 として取ると、子が 「我」 であるのは自明のことのように思われる。しかしそれはそうではない。子は自分の中に存在の根拠をもつ 「我」 ではなく、当面 「汝」 である親の 「汝」 《あなたの子》 として自分を経験しているのである。
それは子が親に従順であるか、反抗するかに関係なくそうなのである。肯定的であるか、否定的であるかに関係なく、凡ては 「我と汝」 ではなく、「汝と汝」 の関係の中に推移するのである。
子は自分の自己に忠実であることによって親に反抗するのだと思うであろう。心理的には確かにそう言うことが出来るであろう。しかしその 「反抗」 は、親の存在を必然的要素として含むのである。
親と成人した子が真に個人として成立するとするならば、そこには分離と無関心とが本質的事態としてはある筈である。
「私」 が発言する時、その 「私」 は 「汝」 にとっての 「汝」 であるという立て前から発言しているのである。日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上に、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。
( 「出発点 日本人とその経験 (b)」)
個人・自我の未確立
上の引用で森が言う 「経験」 は森哲学の核心概念なのだが、こんにち通用する言葉の中で探せば、半ば和製英語化した 「アイデンティティ」 に近い気がする。 (言い換えが雑駁すぎて誤解を招きそうだが、他に適当な 「一語」 が思い当たらない。) そのことを念頭に置きながら、以上を言い換えてみる。
「…話し手も相手も 『独立した個人』 同士であるというより、親密で一体化した 『複数』 として扱われる。『あなた』 は独立した他者というより 『私にとってのあなた』 となり、『わたし』 も独立した 『我』 というより 『あなたにとっての 『あなた』 になる」。日本人はそうやって相手のことを気にかける人間関係を営む民族であり、日本語はそういう構造、表現を備える言語である。
これは明治以来、西洋と接した多くの知識人が指摘し慨嘆してきた日本人の 「個人の未確立」 に直結する問題だ。森はその原因を日本語に求めているのである。その認識は森自身の生い立ち・生活体験から生まれた。
森は幼少からフランス漬けといってよいほどフランス語やフランス思想に親しんで育った人だが、渡仏の前から 「欧化」 されていた訳ではない。渡仏以前の 「経験/アイデンティティ」 は、上記で森が指摘したとおりの 「親子、主従、師弟…」 といった 「複数」 の関係に帰結する日本型だった。ところが、滞仏十年を過ぎた頃、ふと、自分の 「経験/アイデンティティ」 がデカルトの 「我思う、ゆえに我在り」 に代表される近代西洋型に転換している (「いまの自分はそういう風である」) ことに気付いた、という趣旨のことを繰り返し述べているのである。「確立した自我」 として思索し生活している 「我」 の自覚、或いはそういう感覚を体得するに至ったこれまでの生き様の総体が、森の言う 「経験」 である。
これは 「存在 (実存)」 の本質に関わる問題である。私がこれ以上論じようとしても哲学的素養の無さを露呈するだけなので、以下では 「不案内な」 部分は迂回して(笑)、次の二つの問題に分けてみたい。
(1) 日本人の「経験/アイデンティティ」というものは、本当に森が言うようなものなのか?を、「確立した自我」 のある/なしが人や社会に如何なる差異をもたらすか?という現象面に焦点を当てて考える。
(2) (次号に譲るが) 日本人の「経験/アイデンティティ」、傾向は、本当に日本語から来るものかをさらに考える。
「確立した自我」 と 「あなたにとってのわたし」 の対比
森の整理に従うと、「確立した自我」 は、以下のように要約できるだろう。
(1) 二人称であれ三人称であれ、他者を 「我」 とは異なる 「他者 (第三者)」 として認知し、対置する感覚を持つ (「社会」 も 「他者」 の総称・集合として 「我」 と 「対置」 される)
(2) 己 (おのれ) の考えや行動は 「我」 自らが選択したものである。そこから離れたり否定したりすることは 「我」 を否定するようなものでイヤである。だから 「我」 の言行や行動の結果に対する責任が保たれる
(3) 他者に 「我」 の尊重を求める一方、「我」 も 「他者」 (及び他者の集合体としての 「社会」) を尊重する自己規律といったものをもたらす (後述 「個人の確立と 『自分は自分』 の違い」 参照)
これに対して、「協和」 を好み 「不協和」 を避ける日本の対人関係は 「他者を他者として」 尊重するというより、平たく言えば 「抱き合って」 しまう人間関係である。そういう人間関係においては、たしかに他者や外界に振り回されない 「確立した自我」 の観念は育ちにくく、結果として、
(1) 己の考えや行動に責任を持つ意識が希薄 (己の言行や行動が 「複数」 関係の赴くところに従って決まるところがある。「選び取った」 というより、流れに 「従った」 結果だから、責任意識が希薄になるのもむべなるかなである)
(2) 「他者」 を 「我」 と対置するものとする感覚も希薄 (他者とは 「一体化」 できることが理想)、「社会」 (集団) も 「他者」 の総称というよりは己の 「帰属先」 である
(3)「我」 と 「他者」 の相互尊重の意識も希薄、社会への帰属に伴う権利、責任・義務の意識も希薄 (日本人も 「相手を尊重する」 が、それは 「我と同様、我と異なる他者も尊重する必要がある」 からではなく、「あなた」 と 「わたし」 の 「関係」 を良く保つ必要があるからである (連載第七回 「中国人と中国語」 参照))
ということになりがちだと言えるだろう。
「二項関係」に規定されて生きる日本人
森が 「日本人の場合、経験と呼ぶものが、自分一箇の経験にまで分析されえない」 と述べたのは、以上のような状態を念頭に置いて、日本人は責任を引き受け、他者を尊重する独立した 「個人」 としてより、汝−汝の二項関係 (親子、主君と家来、上司と部下、あるいは集団への所属関係) の中に己を位置づけて考え、またそれに左右されて行動している、そういう 「複数」 の関係こそが日本人のアイデンティティを形作る 「経験」 になっていると指摘したものだと考えられる。そう受け止めた上で言えば、確かに日本人の性格、傾向をよく言い表している気がする。以下もそういう前提で読むとよく分かる文章である。
第二次世界大戦が終るまで、日本の思想や道徳は君臣、父子、兄弟、主従の関係を軸としていた。ことに全体の中心をなしていた天皇中心的国家観は、国家と国民の生活の全体を陰に陽に組織する原理のようなものとなっていた 《天皇制》。これはむしろ古来の日本人の 「経験」 の構造に由来するものではないであろうか。
天皇のために死するということが…究極的には自己の自己に対する責任と倫理を包含することなく 、君臣の関係がすでに自己の意志を超えて存在しており、その関係の責任の 「根拠」 が自己になくて、関係そのものに在る時 、そしてそれが自発的に当然うけとられるべきものとして要求される時、…そのものとしての説明を日本人の 「経験」 《ここでは 「自分は天皇陛下の赤子である」 というアイデンティティ》 の構造に帰せざるをえないであろう。
(「木々は光を浴びて、…」 「森有正エッセー集成5」 所収)
個人の確立と 「自分は自分」 の違い
「自我が確立しておらず」 「個人としての自覚が不十分」 であると指摘されると、日本人の中には 「オレ (ワタシ) は、家族も含め周囲には左右されていない、 『自分は自分』 でやっている」 と反発する人がいるかもしれないし、そう言う人の中には、本当に森の言う意味で 「確立した個人」 もいるかもしれない。
しかし、「自己」 を尊重すると同時に、「他者」 及び他者の集合体である 「社会」 (国・地域コミュニティ・会社・政党・学校のクラス・マンション自治会…みなここで言う 「社会」 に当たる) をも尊重する姿勢がないと、本当の意味で 「確立した個人」 だとは言えない。
なぜなら 「社会」 を維持するためには、己の尊重だけでなく、互いが互いを尊重することが不可欠で、それなしでは 「社会」 が成り立たなくなるからである。「確立した個人」 は決して無制約を意味するものではなく、「他者」 や他者の集合体である 「社会」 を尊重する義務が 「個人」 と 「社会」 との関係にビルト・インされているのである。一例を挙げれば、定まった規則 (例:多数決) に従って組織が下した決定に、成員は従わなければならない、従わないのであれば脱退するか除名されるかである、といったことである。その尊重をしない人は、いくら 「『自分は自分』 でやっている」 としても、自己主張が強いだけの人なのである。
森も別の場所で風刺的にこのことを語っている。「…実をいうと 『われ』 の意識は日本人にあってはむしろ過剰なのである。ただそれが享楽主体の 「われ」 《享楽と損得主体の 「われ」 と言った方がより適切な気がする:筆者》 である点があまりにもしばしばであり…自我もその面から自覚されて来る。しかしその自我は、社会を構成する単位としての個の中核ではなく、私的二人称関係の一方の極としての自我なのであり、こういう自我の集合は社会ではなくして、巨大な共同体であり、それは根本的に構造を欠くアモルフな 《=無定型の》 集合に他ならない」 と。( 「パリ随想」 ( 「パリだより」 1974年 筑摩書房刊) 所収)
(平成23年9月24日 記)
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