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ブログ 津上俊哉
日本人が 「二項関係」 を求める訳

森有正の 「日本語・日本人」 論の四回目です。日本人の 「二項関係」 依存的な性格が日本語に由来することを検証してみます。私の解説は脱線して 「日本人は薬物過剰摂取症みたいなものだ」 という発言まで飛び出します (笑)。


日本人が 「二項関係」 を求める訳
(森有正の 「日本語・日本人」 論 第四回)


  なぜ、日本人は 「二項関係」 依存的なのだろうか。

  日本人は 「関係」 の親密性、「合一」 を求める

  森は日本人の人間関係について、こう言っている。

   日本語の表現に 「心の底をうちあける」 「腹を割って話をする」 「信を人の腹中に置く」 などというのがある。「心の底」 とか 「はら」 という言葉は、この親密性の内容をよく示している。それは、まごころとか正直とかいう徳によって総括できるものであるが、具体的にはそれは二人の人間の関係の中に現れるものである。「さし向いになる」 ことはこの特微が現れるための必須の条件であると言える」
( 「出発点 日本人とその経験 (b)」)

  要約すれば、二項関係の本質は、話者と相手との関係の 「親密性」 にあるということだ。

  しかし、そこで求められるのは単なる 「親密さ」 ではないはずだ。「音」 の喩えを持ち出して、個人と個人が音を出し合っているとしよう。二つの音の周波数が合っていないと 「うなり」 (ゥワーン、ゥワーン) が生ずるのは周知のとおり。これに喩えると、日本人にとって理想的なのは、対人関係において周波数が一致して 「うなり」 が消えた (=考えや意見が 「一致」 して 「合一」 した) 状態である。一致しない場合には、己が音を発するのをなるべく控えて (=否定や不同意を明示的、直截に表出するのを避けて) 「うなり」 が聞こえないようにする。

  不同意の婉曲表現と同意の確認・請求

  日本人は 「イエス/ノーをはっきり言わない」 と評される。この点は、他国から見て日本人の際立った特徴として感じられるようである。それは日本人の性格であると同時に、日本人が使う日本語の特徴でもあるはずだ。

  英語や中国語にも、無用の心理的衝突を避けるため、人を傷つけないために工夫された物言いはもちろんある。しかし、日本語ほど否定、不同意の表出が控えられ、表出するにしても 「婉曲」 のバリエーションに富んでいる言語は多くないはずである。

  例えば、誰かの説を聴いたとき日本人がママする応答の一つに 「なるほど (ねぇ)」 というのがある。一見、相槌 (同意) に聞こえる。事実、「同意」 である場合もあるが、賛同の留保、ときには婉曲な不同意である場合が往々にしてある。たかだか 「あなたがそう考えていること、なぜそう考えるかは分かった」 程度の表明でしかない場合があるのだ。けっきょく同意するのか不同意なのかは、その部分のスクリプト (書き下ろし) を起こして読んでも分からず、場の状況、話し手の態度・表情、前後の文脈から判断するしかない (笑) 。

  「そういう見方もあるでしょうねぇ」 になると、もっと始末が悪い。これを直訳されたら、外国人はニュアンス的には 「同意を得た」 と思いこむだろう。しかし、実際は 「なるほど」 よりも、もっと留保や不同意のニュアンスが強いのである。そういう場合であっても 「そんな 『異なこと』 を言うのは貴方だけだ、とまで言うつもりはない」 とばかり 「相手を立てる」 配慮を伴っているところが日本語の特徴である。

  いずれにせよ、日本人にとって、対人関係とはすべからく 「協和」 的で 「合一」 した状態を理想とする、言い換えれば 「対立」 や 「不協和」 は避けるべきものとされていると言える。きょうびの若い人の会話によく現れる以下のパターンにも、その表れを感ずる。

「〜って、どうなんでしょう」 < 「〜って、〜じゃないですか」 < 「〜って、〜ですよね」

  相手の反応が予め読めれば読めるほど、右側の表現に傾斜するが、いずれにも共通しているのは、相手の相槌、同調を確認、請求しているということである。この点で、いまの若い人も日本人の伝統をしっかり受け継いでいると言える。

  逆に言えば、「相手は 「我」 と異なる 「他者」 である以上、意見の相違があっても何ら不自然ではない」 という考え方は、日本人にとって居心地が悪いのである。相手との意見の不一致・対立に遭遇したとき、話者が 「人格を否定された、侮辱された」 かのように感じて激昂するという反応が日本人にはよくあるが、その怒りも 「協和、合一」 という 「あるべきものが話し相手との関係にない!」 ことがもたらす緊張や不安の表れであると言える。

  日本人は脳内物質過剰摂取症?

  森は 「二項関係は、人間が狐独の自我になることを妨げると共に、狐独に伴う苦悩と不安を和らげる作用を果すのである」 と言う (「出発点 日本人とその経験 (b)」)。日本人が二項関係の 「協和」 「合一」 を求め、「対立」 や 「不協和」 を嫌う根本的理由は、ここに求められる。

  これを読んで感ずるのは、日本人が対人関係 「合一」 の快さに馴れてしまう様は、どこか薬物の習慣性に似ているということだ。比喩としてのみ、言っている訳ではない。脳科学では、心の安らぎはドーパミン、βエンドルフィンといった脳内物質の分泌と関係があると言われる。してみれば、日本語を通じてハーモニアスな 「二項関係」 を普段に経験する日本人は、他国人から見れば 「過剰摂取症」 というくらい脳内物質を摂取しているのかも知れない。

  脱線になるが、日本人の「安心」 「やさしさ」 「思いやり」といったものへの欲求は、こんにち歴史的に見ても高水準にある。ビジネスマンも学生もリスクを避ける、異物(例:移民)に向き合いたくない「内向き」志向、学校でも社会でも「やさしさ」が求められる…いまの日本社会の気質のあれやこれやが、それで説明できる気がする。だが、日本語は大昔から使っているのだから、高水準を「日本語を使っているせいだ」とする訳にはいかない。では、この高水準をどう解釈すべきか?

  日本の歴史は政治・社会の混乱、戦争、天変地異などにより、平穏が続いた時期の方がむしろ例外に属する。これに比べれば、高度成長後の過去数十年は例外的に繁栄と安定が続いた一時期だった。そのことが 「安心」 の期待値、相場観を押し上げ、逆に不慮の災難といったものに対して求められる心の備えのレベルを低下させた、という仮説はどうだろうか。

  さらに深読みするなら、森の言う 「二項関係が苦悩と不安を和らげる作用」 は、ひょっとすると、天変地異や戦乱など不慮の災難に見舞われることの多かった日本人が精神の安寧を保てるように発達してきたものかもしれない。「外的環境がもたらす精神のダメージが人間関係の親密さで補償されるように、日本語とそれが醸し出す 『二項関係』 が発達してきた」 といったイメージだ。

  戦後の安定期は 「外的環境もプラス、人間関係もプラス」 のゾロ目が出てしまって、日本社会をある意味で 「失調」 させてしまったが、最近、この安定期が 「潮目」 に差しかかった印象がある。経済、国際情勢の転変は昨日今日に始まったことではないが、311の災難、さらには311に続くかもしれない天災の頻発…「何か大きな与件が変わりつつある」 ことは誰しもが感じていることだろう。今後そうして外的環境がマイナスに転ずるのなら、いよいよ伝統的に機能してきた 「日本語」 「二項関係」 の 「補償」 作用の出番だ、ということになる。さて、これからの日本、現実はどう動いていくのか…。

  途中のまとめ

  森が 「二項関係」 と表現した日本人のアイデンティティというものは、日本語から来るものなのか?というのが本稿のもう一つの検討対象だった。前回及び今回の以上の検討を考え合わせると、日本語と、日本人のアイデンティティの結びつきは、以下のように整理できるのではないか。

(1) 日本語においては、語順上、文の後ろに来る助動詞や助詞が多様なニュアンスを加味しうる。加えて、そのことが多彩な敬語を発達させた。そういう特性を持つがゆえに、日本語では、相手と己の地位の関係や場の状況に合わせて、話者が自分の立ち位置を 「最適に」 移動させ、或いは話し相手が 「聞き入れ易い」 話し方を選ぶことが可能、容易である。

(2) そういう日本語を用いてきたことが日本人の対人関係を非常に細やかで親密なものにし、「そうできる」 ことが 「そうすべき」 という要求水準を高めた。この結果、日本人の対人関係においては、話者と話し相手が協和的で一体化 (合一) した状態に入ることが良しとされ、対立や意見の不一致は忌むべきものとされる。

(3) そういう日本語を用いてきた結果、人の行動や選択が 「複数」 の関係に左右されがちな、つまり 「二項関係」 依存的な日本人のアイデンティティと文化が出来上がった。

  確認のために対比して言えば、ヨーロッパ言語や中国語においては、「我」 は自分と話し相手の 「二項関係」 に左右されにくく、そういう意味での不動の定点から話し相手や事物との関係を測り表現するのだと図式化できよう。ショッピングに喩えて言うと、ヨーロッパ語は 「買いたければ店に来て欲しい」 式の言語、日本語は 「ドア・トゥ・ドアの宅配サービス」 式で、痒い所に手が届く心地良い言語なのだ。

  小異を 「捨てて」 大同に就く?

  そんな日本語を使うことの副作用は、「合一」 の快さや安らぎに馴れてしまう結果、対人関係の緊張や不安に弱くなり、意見の不一致・対立を避けたがるということだ。その結果、「迎合・付和雷同し」 「大勢に流され」 「長いものに巻かれ」 やすくなる。

  日本人が意見の不一致・対立を避けたがるという点で思い起こされるのは 「小異を捨てて大同に就く」 という言葉だ。中国の原典 「存小異就大同」 を取り入れるに当たって、日本人は重大な改変を行った。原語では、大同に就くために小異は存、つまり 「保留」 する (暫時取り上げない) だったのに、日本人はこれを小異を 「捨てる」 に改変してしまったのだ。

 ほら! あなたは 「二項関係」 を優先させるために、自分の考えや立ち位置の方を動かしている!

  言葉を取り入れるに当たって、より日本人のハラに落ちるように 「存」 を 「捨」 に変えてしまったところに、中国人 (ヨーロッパ人も同じ) と日本人の基本的な思考の相違が象徴的に現れていると言える気がする。

  備忘のための注記 「自我」 と 「神」 との関係

  本稿は 「学習ノート」 であるから、この際、森の思想に対する私の疑問を一点提起しておきたい。それは西洋における 「確立した自我」 と 「神」 の関係についてである。森は敬虔なクリスチャン家庭の出身であるが、それにも拘わらず、森の一連の 「日本人・日本語」 考には 「神」 がほとんど出てこない。

  私はこのことを意外に感じながら読んでいた。森はヨーロッパにおいては、人間同士が 「独立した自我」 であり、社会への所属も 「我」 の選択と責任においてなされると言う。なんだか 「西洋人は全てにおいて自らの主人」 であるかのようだが、それでは、信仰も 「我」 の選択と責任においてするものなのか、神との関係には 「経験と呼ぶものが、自分一箇の経験にまで分析されえない」 のに似た状況はないのであろうか。

  これまた、無神論者ではないが無宗教な私の手に余る問題のため、疑問の提起だけに留めておく。ただ、一点だけ思い付きを述べると、森は恐らく 「神への言及」 を心して控えたのだと思う。森はそれでなくとも永年フランスで暮らした自分 (の意見) が日本に受け容れられないことを懸念していたフシがある (著作の中で 「日本人離れしたのではないか」 と問われることがよくあると言っている)。日本人に 「二項関係」 問題を他人事でなく顧みさせるために、大半の日本人に 「距離」 を感じさせることにしかならない 「神への言及」 は、敢えて控えたのではないかと、私は憶測している。
(平成23年9月24日 記)





 

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