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ブログ 津上俊哉
中国人と中国語 −日本との対比

森有正の 「日本語・日本人」 論の七回目です。本題からはやや離れますが、せっかくなので、私の本業である中国との関連で、中国人と中国語についても一言触れておきたいと思います。


中国人と中国語 −日本との対比
(森有正の 「日本語・日本人」 論 第七回)



  ここらで、私の本業である中国との関連で、中国人と中国語についても一言触れておきたい。結論を先に言ってしまえば、中国人と中国語は、日本人と日本語よりはヨーロッパ語とヨーロッパ人に近いということであり、そこで中国語の語順といった文法構造がヨーロッパ言語に近い事実が想起されるのである。


  中国人は日本人よりも 「個」 が確立している

  よく西洋では 「個 (人) 」 が重んじられ、東洋では 「家族・親族」 を核とする 「集団」 が重んじられる、それが 「アジア特有の集団主義」 だといったことが言われる。そこに儒教の影響を指摘することも一般的だ。

  しかし、私は、中国と日本の間には 「集団主義」 では括れない大きな差異が横たわるように感ずる。私の経験では、中国人は日本人よりも遙かに 「個」 が確立しており、自己の選択の結果について責任を引き受ける態度も備わっていると感じている。

  中国人が家族・親族、更には同姓、同郷といった集団を重視するのは事実であり、その点にはヨーロッパとの相違があるかもしれない。これらは 「選択」 を許さない 「持って生まれた属性」 であるが、そういう選択を許さない 「集団帰属」 関係はせいぜい一つか二つに限定されているのが中国人の集団帰属の特徴だ。それ以外にも中国人が集団を重視し、集団で行動することはもちろんあるが、それは生存を確保し有利に導くための 「術」 である。よって役に立つ集団は帰属しておくべきだし、役に立たない集団は顧みられない。

  ところが、日本人にとって所属する集団は、気にかけなければならない人間関係の数だけ存在する (対人関係を気にかけなくてもよい人間とは 「赤の他人」 である)。家族、職場、日常の付き合い ( 子供の学校のPTAや 「公園デビュー」 したママのサークル (笑)) に至るまで、一つや二つでは済まない各集団での 「帰属」 具合 ( 「浮いて」 いないか) をいちいち気にかける。

  前回述べたように、日本人はそれらの集団から離脱する (排除される) ことに強い怖れを覚える。それが 「選択」 を許さない 「持って生まれた属性」 に当たらず、所属しようがしまいが構わないような集団であってもだ。そこが中国人との大きな相違だ。

  とくに日本人にとって、職場という集団への (正規社員としての) 帰属は極めて重大な意味を持つ。最近は終身雇用は公務員や少数の大企業にしか残っていない稀少慣行化しつつあり、また就業形態も非正規労働が増加しているから、会社への所属意識は若い人を中心に地滑り的な変動を始めているが、そうした変化の中にあっても、「大企業・大卒・正社員」 が勝ち組であり、そうでない者は疎外感を味わっている。

  これに対して、中国人にとっての職場は、生存を確保し有利に導くための 「術」 でしかない。だから、「この会社にいても自分に明るい将来はなさそうだ」 と悟った瞬間、スパッと会社を辞める。会社での人間関係は水平的というより垂直的だが (自分が見込んだ老板 (ボス) に随いていく)、それとて 「ボスは自分を評価していない」 と悟った瞬間、離れていく。また、辞めなければならなくなったときに行き場がないといった 「被動 (受け身)」 な境遇に陥らないように、「居安思危 (安きに居りて危うきを思う)」、平素から親戚・友人・先後輩との交際を通じて有事に備えるためのヘッジを怠らない。(本ブログ「賢いウサギは三つの巣を持つ話」参照)

  だから、日本で言われる 「社畜」 現象は、中国人にとっておよそ理解困難で奇怪そのものだ。「『家畜のような生活がイヤだ』 と言うのなら、なぜ今すぐその会社を辞めないのだ!?」 というのが中国人の通常の感じ方なのだ。

  「約束」が持つ意味 −中国人と日本人の差異

  森は別のところで、こう言っている。
  日本人は 「誠実」 という徳を高く評価する。…誠実と言うことは、結局相手に向っての誠実であり、相手を欠いては誠実は意味がない。日本人にとってもっとも大切なこの徳は、凡て相手を予想する 《ものである》。のみならず、徳を超えた思想の領域にまで、こういう評価の仕方が続いているように思われる。(「木々は光を浴びて、…」 )

  この点についても、私が日ごろ日本人と中国人の相違について思うことと符合するものがある。日本では、よく 「中国人は約束を守らない」 と言われる。この見方に関する私の感想は、イエス・アンド・ノーだ。

  中国で約束を守らせたければ、あなたは相手にとって大切な (関係を失いたくない) 人である必要がある。約束を守ってもらえなかった被害体験を持つ人には 「あなたは違約した中国人から見て、『行きずりの他人』 以上の人ではなかったのだ」 と言うほかない。

  しかし、誠実な中国人なら、そもそも守る気のない約束 (できない約束、努力する価値を認めない約束など) はしない。一方で日本人だって 「(大切な相手でなくても) 約束した以上は、必ず果たす」 誠実な日本人ばかりかというと怪しい。だから、この点はそれほど大きな差ではない。

  それでは、約束遵守を巡る日本人と中国人の意識の差は何か?私は、誠実に努力したが約束が果たせなかった、とくに外部の不可抗力によって履行不能になったような場合に日中の差異が現れると思う。中国人は 「残念だ」 「遺憾だ」 とは言うが、比較的 feel free だが、日本人はたとえ原因が不可抗力であっても、相手に対して履行不能を 「済まながる」 のである。

  中国人の頭には 「義務は承諾したが、不可抗力によって履行不能になったのなら、それは自分の責任ではない (= 責任免除)」 という、ある種 「契約」 的な感覚がある (西洋と同じではないにしても) 。これに対して、日本人はたとえ不可抗力であっても約束が果たせないと、相手に対して 「気が済まない」のである。

  つまり、日本人が約束を守ろうとするのは、己が承諾した 「義務」 だからというより、「守らなければ対人関係がまずくなる」 から、ではないのか。この意味で 「(日本人にとって) 誠実と言うことは、結局相手に向っての誠実であり、相手を欠いては誠実は意味がない」 という森の指摘は大いに肯けるのである。

  本稿のまとめ
  「日中は 同文同種」 という親近感を表明する言葉がある。たしかに、日本は論語をはじめとする中国の古典・文化を大量に、永く吸収してきた。孔孟の教え、四字熟語など日本が享有・共有する中国文化が日中間の相互理解に資していることは事実だ。

  明治以後は逆に大量の近代概念が日本の翻訳を経由して中国に流入した (革命、民主、経済、哲学…)。最近は日本発のマンガ・アニメが奔流のように中国に流れ込んで若者に多大の影響を与えている (「中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす」遠藤誉著日経BP社刊)。

  しかし、一方で、中国と付き合った多くの日本人ビジネスマンが「中国人と日本人は違う」と指摘している。「中国人の発想と行動はむしろアメリカ人に似ている」 と指摘する人もいる。私も、中国人と日本人は少なからぬ点で違うと思う。「似ている部分もある」 が、それを言うなら、欧米人と日本人の間にも共通点は見出せるのである。

  少なくとも、「同じ文字を使うから同種だ」 とするのは、思いこみ又は願望である。文字は同じでも文法がまったく違う。森の理論に従うなら、同じ東洋と言いながら、中国人の発想と行動様式が日本人よりは、むしろ欧米人に似ているという結果も納得できるのである。

(平成23年9月24日 記)





 

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